第2話 アザゼル
天界の記録ではアザゼルという天使が生まれたことは一度もない。
アシズの見上げる空にはいつだって大きな穴がぽっかりと開いていた。その空に耳を澄ませれば、多くの声が聴こえた。なんとも楽しそうで能天気な笑い声ばかりが。それがアシズにはなんとも煩わしく、耳障りで焼けつくような憎悪の念すら向けていた。いつの日にか、この手を穴へと手を届かせて声の主どもを根絶やしにしてやるのだと何度も、何度も己自身に誓った。
アシズの棲む土地はどこまで行っても荒れ果てて、常にあらゆるものが不足していた。それなのに地を生きる者どもは減らずに増えていくばかりで、弱いものから奪い、犯し、喰らい尽くす。そうしなければ到底生きられない世界であった。アシズも己がいつから存在するのかは覚えてすらいなかったが、最も古い記憶にあっても血と暴力で染められていた。そんな風にアシズは生きてきた。
周囲の何もが憎く、壊すことばかりに注力した。いつの間にかアシズの力は肥大化して、そうするとアシズのおこぼれに与ろうと弱い者どもがアシズの足元に額づいてくる。そんな者どもをさらにアシズは踏みにじるのだ。だってアシズは足元を見ない。足元の弱者など目にも入らない。アシズが見つめるのは空を丸く切り取る穴ばかり。そうして見上げるたびにアシズの内を焼く暗い炎が燃え盛るのだ。
ある日には空から人が降って来た。誰も気が付かなかった異変に空を見上げ続けたアシズだけが気が付いた。その降って来たそいつはアシズを認めると恭しく一礼をして口の片端だけを吊り上げた。それはベリアルと名乗った。
「いつまでも飽きもせずに空を見上げる君にチャンスをやろうじゃないか!」
「チャンスだと」
「そうチャンスだ。君が俺のなんて事のない可愛いお願いを聞いてくれるならば、俺があの穴の先からここまで、梯子をかけて差し上げよう」
空に開く穴を高く掲げた指で示すとベリアルはそう告げる。ベリアルに背には黒い六枚の羽根があった。羽根があるならば、そんなことも出来るだろうかとアシズは思う。まさしチャンスである。羽根を持たないアシズは穴の先に行く、万に一つもあり得なかったチャンスが訪れた。
「条件は」
続きを促すと、ベリアルは歪な笑い顔を浮かべた。口元に人差し指を立て、さらににんまりと笑って見せた。
「君の同族を全て殺すこと」
……ああ、なんだ。簡単なことだ。アシズの爪は一族で最も鋭い。一族の者どもを貫くなど簡単だった。アシズの腕は一族で最も力強い。一族の者どもの肉を引き裂くなど簡単だった。アシズの足は一族で最も速い。一族の者どもを一人残らず逃がさぬことは簡単だった。
全身を血で染めて、辺りには血と脂の混じる死臭が漂った。誰も叫ぶ者のいなくなったころ、静まり返った荒野の真ん中でアシズはいつものように空を見上げた。
空に開く穴の向こうでベリアルが歪な笑いをしているのだろうと思った。しかしそれもアシズにはどうでもいいことだ
言葉の通りに穴から梯子が降りた。梯子を一つ一つ登りながら、アシズの体から血がいくつも滴る。アシズは目に写る全てを憎んでいたが、とりわけ強く憎んだのは楽しそうな笑い声だった。笑い声を聞くとどうしても踏みにじってやりたくなるのだ。そうするときにだけ、アシズは心の底から笑うことが出来た。何も満たされないままではあったが、それでも他に満たされる者がいなければマシな気分になる。
梯子を登りきり、目の前に広がる光景にアシズは愕然とする。見たこともない数の植物が生い茂っている。頬に当たる風は柔らかい。息を吸えば、甘い果実の香りや花の香りが鼻孔をくすぐる。穴の先にはまさしく別の世界が広がっていた。
アシズの胸の内を燃やす炎がさらに熱く燃え上がった。こんな美しい世界がずっと自分の頭上にあったのだ。なんてことだろう。もはや一刻の猶予もなく考える余地もなく、ベリアルを初めとしたここに住む者どもを殺しつくさねば気が済まない。ベリアルを待たず、アシズは足を進めた。
「……だれかいるの」
ぱたん。何かの閉じる軽い音がした。鈴のなるような柔い声だった。アシズは足を止めて、息を殺し木の陰に隠れた。すぐさま襲い掛かることはしない。アシズは知恵の回る獣だった。
少し先に木の生えていない開けた空間がある。そこには白い石で造られたアーチ状の建物が建てられている。建物の窓から顔を覗かせたのは燃え上がるような髪色をした少年とも少女ともつかない中途半端な生き物だった。その体はまだ細く小さく未発達であるように思える。
白のゆったりとした衣服をまとっている。その背にはベリアルと同じように羽根があった。違うのは羽根の色が赤く、その数が四枚であるところだ。生き物は訝しげな表情で辺りを見渡している。身を隠したままアシズは動かない。そんな自分の行動がアシズには不可解だった。初めに身を隠したのは相手を探るためだ。その生き物は、どう見ても弱そうだった。細い首はアシズの腕なら簡単に折れてしまうだろう。明らかにアシズよりもはるかに弱い。その視線がアシズの隠れる辺りで止まる。気が付かれたかと様子を窺う。気が付かれたならば殺してしまえばいい。しかしどうしてか体は動かないままだ。
「……まあ、いいか」
そう呟き、生き物は再び窓から顔を引っ込める。そこでようやくアシズは肩から力を抜くのだった。しばらく動かずにいると、建物から規則正しい寝息が聞こえて来た。あの生き物は眠りについたようだった。木の陰から出るとアシズは建物へと近づいた。恐る恐る、何かに強く惹きつけられて、その何かに抗えないままアシズは建物に足を踏み入れる。
建物の中には柱と同じ材質の白いベンチが備わっている。そのベンチの上に予想通りに白い建物の中で生き物は横になっていた。近くで見てもやはり男とも女とも判別がつかない。それ以前に生きているのかも怪しくなるほどの整った容貌をしている。
少なくとも赤い羽根が寝息に合わせて上下しているので、生きているのは確かだろうが。しかし本当に眠っているのか…?不信から頬に手を伸ばす。そうして改めて視界に入った自分の手に乾いた血がこびりついているのに気が付き、思わず手が止まった。どうしてかその手で触れることを躊躇した。
「おや、シェムハザか」
「っ!」
「これは失敬。驚かせてしまったかな」
「後ろに立つんじゃねえよ」
突如、現れたベリアルをアシズは睨みつける。眠る生き物を注視するあまり気が付けなかった。苛立ちが生じた。芝居がかった仕草で肩をすくめるとアシズの横を通ってベリアルは生き物の傍らにしゃがみ込んだ。
「こんな下層にいるとは珍しいこともあるものだ。初めて会う天使が彼とは、どうにも君は運が良いらしい」
「男か、そいつは」
「いいや? 天使に性別などはないさ。好きな方で呼ぶといい……普段は仕事部屋に篭っているくせに、どんな気まぐれだか」
その声には少しの棘があった。背を向けてしゃがみ込んでいるベリアルの表情はアシズには窺えない。そんなものは心の底からアシズにはどうでもいいことなのだが。
「さて」
ベリアルがまた大仰な仕草で振り返る。
「ついに君は空へと昇ったわけだが、これからどうするつもりかな? 憎しみのまま天使を殺しつくすかい? それとも欲に従い楽園を食いつくすのがお好みかな?どちらにしても最期には害ある獣として処分されるだろうが」
「俺は――」
アシズの言葉にベリアルは目を剥いて、すぐに面白いと口角を吊り上げた。
アザゼルの名はすぐに天界中に知れ渡った。何故、今までこれだけの実力者が知られていなかったのかなんて疑問とともに。アザゼルに用意された職務は外敵の排除と、これまた皮肉なものだった。
天界という空の上にはいくつかの層がある。その中でも上層に内政を行う天使たちの職場、会議場などが造られていた。広い白亜の建物内をアザゼルは迷うことなく進む。その足が止まるのはとある天使の仕事部屋の前でだけだ。
「シェムハザ。いるか」
「ああ、いるとも」
呼びかけに答える声にアザゼルは満足そうに笑みを浮かべる。部屋に入ると、シェムハザは業務のために普段と変わらない様子で書物から顔を上げない。開かれた窓から柔い風が吹き込む。シェムハザの羽根と髪が風に吹かれて揺れた。
シェムハザの周りはいつも静謐だった。穏やかな静けさがシェムハザに寄り添っていて、温度はないのに温かい。シェムハザの傍らに歩み寄れば、ようやくシェムハザは顔を上げた。
「今日も話をしてくれるのか?」
「もちろんだ」
その静かさが、どうにもアザゼルには好ましかった。
アザゼルはシェムハザを愛している。たったそれだけの真実が何もかもを燃やし尽くしてきたアザゼルの胸の中で、どんな炎にも犯されずに何も犯すことなく存在している。まるで地上で初めて浴びた陽光のように鮮やかにシェムハザはアザゼルの心に住み着いた。
「久しぶりね、天使さま」
そう囁いたのは見覚えのない女だった。毒々しさすら感じさせる赤い唇に男を誘惑することを知る蠱惑の微笑みを浮かべている。初めて見るはずの女の、懐かしさすら感じる気配にアザゼルは眉を寄せた。
場所はシェムハザと共に見た湖のほとりだった。まだいつもの時間には遠いが、じきにシェムハザもやって来るだろう。その時にこの女がいるのは邪魔だ。何より女の気配はシェムハザには正しく毒であろう、とアザゼルは短い間に判断を下す。
「失せろ、女」
「ま! ツレないのね。こういえば分かるかしらねエ、アシズ」
女の呼んだ名前にアザゼルは凍り付く。その名はすでに捨てた名だった。この地上では、天界では誰もが知るべきではない名前だった。アザゼルの抱える何よりも大きな、シェムハザにも明かせないようなそんな。
そのアザゼルの様子に女はケラケラと嬉しそうに肩を揺らす。動揺を間近に感じ取り、目元を愉悦で綻ばせる。
「貴様、何者だ」
「うふふ、さて誰かしら」
「死ぬか」
「やあだ、そんな怖いこと言わないでくださいな?」
さも愉しそうに笑い声をあげるもので、アザゼルは女を底冷えのする目で眺めた。その目は獲物を前に品定めする獣のようだ。
女の細い腕が黙り込んだアザゼルの首に回る。鼻が付きそうなほどの至近距離で女はアザゼルを映し込んだ瞳に欲と熱を孕ませる。アザゼルの胸板にぶよぶよとした肉の塊が押し付けられる。
「おかしいわよね、貴方も私と同じ穴の底の獣だったくせに……一体どうやってその背の翼を手に入れたの?ふふっ、あの天使から貰ったのかしら?」
「天使?」
「誤魔化さないでよ、あの、よく貴方とここで過ごす小さな天し、んっぐ」
女の顎をアザゼルは掴む。アザゼルの手の下でもごもごと女はなおも言葉を続けようとする。アザゼルは久しぶりに己の内で炎が燃え盛るのを感じていた。
好ましく、愛おしいとすら感じた静けさがすっかりと立ち消えて、今すぐにでも目の前の女を奪い、犯し、喰らいつくさねば気が済まない。
この女が、目の前の女がもしもシェムハザに、など想像するだけで身震いするほどにぞっとする。そんなことは許せない。許さない。
奪え、犯せ、喰らえ!勢いに任せて女を押し倒し、その首元に食らいついた。女の目には喜色が浮かぶ。
気が付けば辺りは夜の闇に包まれて、湖は赤く濁った。かつての美しさなど欠片も残ってはいない。美しかった湖を汚したのは他でもないアザゼル自身だ。そんな湖をただ呆然と我に返り、アザゼルは見下ろした。
結局その日、シェムハザがやって来ることはなかった。
ラファエルによってアザゼルは他のグリゴリとは違う罰を与えられた。ただ一翼、否一匹だけ手足を縛られダドエルの深い穴の中に投げ込まれたのだ。
「……お前のような生き物を同胞と信じて傍に置いてシェムハザも哀れですね。お前さえいなければ堕ちることもなかったろうに、やはり魔物などに慈悲を与えるべきではない。ベリアルもサマエルも、……ルシフェルも愚かです」
自由になろうと穴の底でもがくアザゼルを冷めた目で見下ろし、ラファエルは蓋をした。
封じられ、一切の光も消えた穴の中でアザゼルはなおも、あがき続ける。そこにはシェムハザがいない。もがき、蠢き、ついにはベリアルに与えられた天使の皮も破けだす。獣の本性を晒しながら、それでもあがいた。獣の頑丈な皮膚も破け血が飛び散る。固い封じはそれでも破けない。
アザゼルの心にあるのはシェムハザだけだ。あがいて、もがいて、そうしていつしか永劫にも近い時間が流れた。
「やあ、迎えにきたよ。アザゼ、……おやおや、なんて酷いありさまだ」
岩の蓋を開けたのはベリアルだった。にやにやと変わらない歪な笑みを浮かべながら血だらけで穴の底を這うアザゼルを見下ろしている。ベリアルの指が高らかに鳴らされた。
途端、アザゼルを拘束していた封じが解かれる。黒い翼を羽ばたかせて、いの一番にアザゼルが向かったのはシェムハザの元だ。礼も言わないアザゼルに呆れたように肩をすくめながら、そのあとをベリアルも追う。
遠い地の底にシェムハザは変わらぬ姿で座している。岩のように動かなくなった愛しい存在をアザゼルは優しく壊れ物を扱うように丁寧に抱き上げる。
「ああ、……シェムハザ。……全く、本当に岩になる奴がどこにいる。……さあ、行こう。また俺が美しい景色を見せてやるからな」
周囲に転がる邪魔な岩を踏みつけにしながら歩くアザゼルの目にはシェムハザしか映っていない。その様子をいつものように歪な笑みを浮かべ眺めるベリアルだが、その目には少しの憐憫が珍しくも滲んでいる。
もうそこには誰もいないのだと、愛に狂った獣に教えられる者はいなかった。
Grigori 百目鬼笑太 @doumeki100
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