Grigori

百目鬼笑太

第1話 シェムハザ

 アダムとイヴが楽園を去り、いくらかの歳月が過ぎた。天界に住まう天使たちにとっては瞬きにも等しく、しかし地上には瞬く間にアダムの子供たちが溢れるようになった。神は人間社会の監視を地上の監視者たるグリゴリに命じられたのだった。

 グリゴリたちが任務にあたり指導者として選んだのはシェムハザという名で知られる天使の一翼だ。赤い四対の羽根を持つシェムハザは天界でも有数の実力者に数えられていた。

 そこからシェムハザはさらに有力な天使たちを頭目として選びだし、グリゴリのあらゆる決定にはその頭目たちで話し合うとしてグリゴリの在り方を定めた。


 シェムハザは観察する。天界と地上では命の在り方が異なる。天界の存在する全てのものに終わりは訪れない。だが地上では違う。枯れていく草木を記録する。死にゆく動物を記録する。記録をしてから生を終えた魂の回収を死の天使へと命じて、その魂は次の輪廻へと乗せられる。

 魂の管理。

 それこそが天使シェムハザの権能だった。シェムハザの片手には全ての生者と死者の名を記した書物がある。その日も書物を開き、死に行く者たちの確認をしていた。突如、突風が吹きおこる。慌てて書物を押さえる。手元の書物の上に影が降りた。


「ここにいたか」

「アザゼル」


 同じグリゴリであるアザゼルがすぐ目の前に立っている。アザゼルは火色の目と鍛え抜かれた肉体を持つ天使の一翼だ。その背の黒い翼を折りたたみアザゼルはシェムハザと目を合わせると破顔する。それに釣られるようにシェムハザも口元を緩める。


「そう書物ばかり読んでいては、体が岩にでもなってしまうぞ。せっかくの地上であると言うのにお前ときたら……少しは体を動かせ」

「業務中だぞ」

「知るか、そんなもの。あとでも構わんだろうが」

「アザゼル……」

「さあ、さあ早くしろ。まさか俺と過ごすより書物の方が大切などとは言うまいな」


 アザゼルに急き立てられ、書物を仕舞うシェムハザ。そのまま腕を引かれて立ち上がると、ともに翼を羽ばたかせた。アザゼルを筆頭に他のグリゴリの幾人かは天界を離れた地上で、文字通りに羽を伸ばしている。遊びまわっているようにしか見えないが、結果として地上を飛び回るために人間の監視という任は果たしていた。そのためにシェムハザは彼らに、とくに楽しそうにあちこちを飛び回るアザゼルに何の注意も出来ずにいた。

 アザゼルに連れられて辿り着いたのは森の中の小さな湖のほとりだった。水面に空が写り込んでいるようで湖は鮮やかな青色をしている。さらにそこに日が差し込んで水面はきらきらとまばゆく輝いている。その輝きに、シェムハザは息を飲み込む。


「どうだ、美しいだろう」


 シェムハザが見とれているとアザゼルは声を弾ませて耳元で囁いた。湖から顔を上げるとアザゼルは声の通りに楽しそうに笑いながら、シェムハザを見下ろす。シェムハザはその目を見返し首をかしげた。


「これを僕に見せたかったのか」

「そうだ。ほら、見ていろ」

「……?」


 アザゼルが湖を指し示す。そうしていると時刻で日の角度が変わったのか、湖の輝きが収まっていくところだった。あの光景が見られるのは、一日にほんの数時間だけであるようだ。

 天界は変化を持たぬ永劫のうつくしの国である。これは確かに天界では見られない光景なのだろうとシェムハザは思う。命と同じように限りあるからこその刹那の美しさだ。


「美しいな」

「そうだろう! この景色を見つけたときには俺もおどろ、……シェムハザ?」

「地上は美しいものばかりだ」

「何を泣いている……そんなにこの景色に感動したのか?」

「ああ、そうさ」

「……そうか、ならばいいが」


 日に雲がかかり、辺りは暗く変わる。そんな中で輝くことをやめた湖を見つめた。はらはらと涙を流すシェムハザにアザゼルは目を剥き、その丸い頬を流れる雫を親指でぬぐい取る。それからその立派な眉をほんの少しだけ下げた。


 かぎりあるもののなんてうつくしいこと。


 限りあるものが命を削って作り出すものの美しさをシェムハザは知っていた。有限のものが生み出す刹那の輝きにはときに永遠を遥かに凌駕する美しさが宿る。

 では、ならば、永遠を生きる天使には?天上にある大いなる方の使いとして世界の運用を任された天使には、一体どんな美しさが宿るだろうか。はたして何が作り出せるだろう。

 その浮かんでしまった問いの答えは誰も持っていない。そもそも神の使いでしかない天使は何も生み出さない。地上の生物のような繁殖も必要としない。


「おお、もう泣き止んだのか」

「……ふん」

「なんだ、照れているのか。今更だぞ。もうお前の泣き顔はしっかりと記録したからな」

「ふん、知らん」


 すっかり暗くなった湖のほとりで、シェムハザに寄り添っていたアザゼルはシェムハザの顔を確認しながらからかいながら頬をつつく。情けない姿を見られたと、少しだけ恥ずかしくなってしまったシェムハザは、シェムハザでそっぽを向いた。そうして立ち上がろうとしたシェムハザの体を自分に引き寄せて、その肩に腕を回す。


「何をそんなに悲しんでいるかは知らないが、そう気にするなよ。お前はいつもいつも考えすぎる」

「話したところで能天気なお前には分からぬさ」

「そうだろうとも。しかし理解こそ出来ぬがこうして寄り添うことはしてやれる」

「……」

「お前の小さな悩みなど俺がどんと胸で受け止めてやろう。安心して飛び込んで来い」

「……お前と言う天使の大らかさは本当に頼りになる」

「そうだろう、そうだろう!」


 皮肉に気が付かずに、あるいは気づいたうえで欠けた月を写し込んだ黒い湖のほとりでアザゼルの大きな笑い声が響き渡った。笑い声に合わせて揺れる胸に顔を押し付けられながら、シェムハザもほんの少しだけ目元を和らげるのだった。それまでの悲しさがアザゼルの笑い声で吹きとばされていくような心地がした。


 ★


「父上」


 天界でいつものように死者の確認をしてするシェムハザに声をかける者がいた。振り返ると、そこには微笑みを浮かべた原初の人アダムが立っていた。アダムの不可解な呼びかけの意図に思い至り、シェムハザは眉を顰める。


「僕を父などと呼ばないで貰おうか。お前を創り出したのはあの方だ。それを僕などが父と呼ばれれば不敬が過ぎる」

「ええ、ですが。僕の父は貴方です。ただの土塊に魂を宿すなんていう奇跡を起こしうるのは天使の中でも魂の管理者たる貴方だけでしょう」

「やめろ。僕の力も全てはあの方が授けたもの。天使の起こす奇跡は全てあの方の御業に他ならない」

「ですが……」

「議論するつもりはない」

「……そうですか。貴方がそれで構わないのならば、僕も口を噤みましょう」

「そうしろ」


 そのままシェムハザは書物に視線を戻して作業を再開する。にこにこと微笑んだままシェムハザを見つめるアダム。しばらくの沈黙が過ぎ、耐えきれないと言うようにシェムハザは顔を上げた。


「なんだ、何をしにきた。何か僕に用でもあるのか」

「ああ、そんな。仕事を優先してください。貴方の仕事に比べれば僕の用事など些細ですので終わるまで待ちます」

「いいから言え。集中できない」

「……では、このたび妻と地上に降りることになりましたので別れの挨拶に参ったのです」

「な、重大じゃないか! 何が些細だ!いい加減にしろよ! お前!」


 さらりと告げられた大事に思わずシェムハザは言葉を乱す。普段、仕事場に引きこもるシェムハザであってもアダムとイヴの引き起こした事件については聞き及んでいた。ときおり訪れるアザゼルが勝手に語っていくというのが実際ではあるが、それでも全く縁のない相手ではない故にそれなりに気にはしていたのだ。

 楽園にある禁断の果実を妻に誘われて、アダムも口にしたのだという。そもそもなぜアダムの半身たるイヴが禁断の果実を口にしたのかなど、不明の多い事件であった。アダムという人格が、禁じられたことに自ら手を伸ばすことなどしないとシェムハザは知っている。ならば、裏に糸を引く存在がいるのは間違いない。それも明らかにせずにアダムを楽園から追放するなど、あり得ないことだ。許されないことだ。


「いいえ、些細なことです。シェムハザ」

「なに?」

「もとより、いつかは妻を連れて地上に降りようと考えていたのです。今回のことは、ええ、結果的に良いきっかけになりました」

「自ら地上になど……何故、そんな……」


 そのときすでにシェムハザは知っていた。地上にある生物はいつか必ず死ぬ。

 天界を出れば生き物は永遠性を失う。やがて死を迎え、その魂をシェムハザが再び輪廻に乗せるのだ。ただし楽園に在り続ければ話は変わる。天界は永遠である。天界にある草花は枯れずに咲き誇り、動物も朽ちることを知らないままなのだ。その理から外れるのは唯一天使ぐらいなものだった。

 それを自ら手放すというアダムにシェムハザはかけるべき言葉を見失う。そんなシェムハザにアダムは眉を下げて、泣き笑いの表情を浮かべた。


「悲しんでくれるのですね」

「そんなの、当たり前だろう……失われた命は二度と戻らない」

「ええ。そうです。だからこそ繋いでいくことに意味が生まれる」

「意味…?」

「失われてしまうからこそ、子に、孫に繋いでいくのです。そうしてこそ、僕たちの命はより強く輝く」


 アダムはシェムハザの手を取ると祈るように両手で握り込む。


「いつか、貴方と再び出会いますように。その時にはまたお話をしましょう。さようなら、父よ」


 笑うアダムの姿が掻き消える。本当に別れの挨拶をしに来ただけであったようだ。シェムハザの手にはアダムの体温がいつまでも残って、やがて消えていった。いつかは訪れない。再会を待たずに老いたアダムは地上での死を迎える。

 天界からアダムの生をシェムハザはずっと見ていた。土を耕す姿も、子が出来て、孫が出来いく様子も、少しずつ老いていくさまも見ていた。多くの苦難が夫婦を襲い、それでも立ち向かい、乗り越えて穏やかに笑いあうさまを。泥にまみれて、決して豊かではないのに、それは、なんて。なんて。


 魂の運行とは言えば聞こえはいいが、実際に行うことは生物に死を迎えさせることだ。常に手に持つ書物から死者の名の確認をして、記録通りに死なないものにはシェムハザが指示を出して他の天使に魂の回収を、死を与えに赴かせる。生物の死を司るシェムハザたち、死の天使は清浄なる天界ではとくに異質とされた。


「アダムの魂はどこに向かった」

「サマエル、何度尋ねられても教えられない」

「シェムハザ!」


 アダムの死後、その魂の回収はサマエルとは別の天使に命じた。顔色の悪いサマエルが何度も何度もシェムハザのもとに訪れる。そのたびにアダムの魂の在処を問いかけてくる。アダムの魂はすでに輪廻の輪に混ざり、新たな生を歩んでいることだろう。輪廻の向かう先はシェムハザの業務の中で最も大きな神秘に触れている。


「何故だ、何故答えぬ。何故、俺ではなく他の者に回収を命じたのだ。何故だ。死者の魂の回収は俺の司るところであるのに」

「君が冷静でないからだ。いつだってアダムが関わると君は正気を失う」

「正気だと…? 笑わせる。そんなものは奴と関わった時点でどこにも、存在しない……」


 シェムハザの言葉を嘲笑うと、サマエルは消え入りそうな声で呟いた。そうしてふらつきながら去っていく背には、ひどく小さく哀れなものに思えた。かつてサマエルはルシフェルにも並ぶほどの力を持った熾天使の一人であった。それがどうしてああも変わってしまったのか。

 シェムハザには理解が出来ない。サマエルが去り、仕事部屋にシェムハザはまた一人きりになる。書物を仕舞うと目を閉じる。静かな室内。耳を澄ませると遠くの音が良く聞こえる。


「シェムハザ! いるか!」


 廊下に響くアザゼルの声が耳に届いた。アザゼルを迎えるためにシェムハザは立ち上がる。天使の命に限りはない。そこに人のような鮮烈な美しさはなくとも、失われることのない穏やかさはあった。


「もちろん、いるとも」


 失われることのない日々のなんと休まることだろう。しかし、それでも、とシェムハザは思うことを止められない。それが罪であることをまだ知らなかった。


 ★


「次回の集会はヘルモン山の頂でやるそうだ」

「ああ、連絡ご苦労」

「次こそは顔を出せよ。貴様もグリゴリの頭目の一人なんだからな」


 やって来たラミエルはシェムハザにそう告げた。そんな注意と連絡事項を告げるとすぐさま飛び立っていく。他の天使たちにも連絡をしに回っているのだろう。グリゴリの中でも一、二を争う速さの持ち主であるラミエルはこうして連絡役を任せられることが多い。

 ラミエルの言葉の通りに定期的に開かれるグリゴリの集会にシェムハザは好んで参加をしない。それはシェムハザの死に多く触れる役目から他の天使たちに恐れられていることが理由の一つであるし、他ならないシェムハザが多数との関わりを面倒くさがるからでもあった。グリゴリの指導者に任命されて、まずシェムハザが考えたのはどのように他の天使との接点を減らすのかであった。正直なことを言ってしまえばシェムハザは自分ほど組織を束ねるのに向いていない天使もいないだろうと信じていし、だからこそ自分の他に二十翼の頭目を選び出したのだ。


 アザゼルに教えられた湖のほとりにシェムハザは暇さえあれば訪れた。やはりいつであっても湖の見せる刹那の光景は美しくシェムハザの心をとらえた。


「そんなにこの景色が気に入ったか。シェムハザ」

「ああ。美しい」

「美しい景色はここだけではないぞ」

「そうなのか」

「そうだとも。また俺が見つけてお前にも教えてやろう」

「それは楽しみだな」


 飽きる様子もなくいつまでも湖に訪れるシェムハザに呆れた表情を見せながら、アザゼルも嬉しさを隠さなかった。二人で身を寄せ合いながらいつまでも湖を見つめていた。そんな日がいつまでも続くのだとシェムハザは信じていた。


 信じていたのに。


 震える手でシェムハザは口を押える。声を出さぬよう息をほんの少しも漏らさぬよう。甲高い人間の娘の嬌声が湖の周辺に響く。生き物が湖のほとりで睦みあっている。気づかれないよう息を殺してシェムハザはその場を離れた。娘を抱くのはアザゼルだった。

 生物の交合は新たな生のために、次代に繋ぐために必要だとシェムハザはもちろん知っている。それでも天使と人間が交わるなんて思いもしなかった。生殖を必要としない天使には意味のない行為であるとしか思えない。意味のない生殖ならば何故、アザゼルは人の娘と交合などしたの。

 天使と人が交わったとして、そこに人間と同じように残り、のちの世に繋がる何かがあるのだろうか。初めの疑問から枝分かれして、次々に疑問が浮かんでいく。そうやって最初の疑問は塗りつぶされて、いつしか見えなくなった。気が付けばシェムハザの目は濁り何も映さない。


「シェムハザか?」


 かけられた声に振り返れば、同じグリゴリの一人であるアラキエルがいた。アラキエルはシェムハザの濁った目に見つめられ困惑と心配を隠さずにいる。


「その、どうかしたのか」

「アラキエル。僕はとても気になることが出来てしまったようなのだ。どうしたら答えを得られるだろうか」

「……その気になることは分からぬが、我も共に考えよう。我らは同胞であるのだから」


 アラキエルの答えにシェムハザは微笑む。その目から涙が一滴、流れた。差し出されたアラキエルの手をシェムハザは取る。本人も忘れ去った、誰も知らない始まりはそんなことだった。あまりにもとるに足らない小さな、小さな疑問だ。


「ああ、シェムハザよ。そんなことを悩んでいたのか。ならば簡単だ。人の娘を妻にするのだ。何も生み出せぬことを嘆くなら、人と交わり共に地上で生きればいい」


 シェムハザの相談に答えたアラキエルの言葉はシェムハザの全く思いもしないものだった。元からシェムハザには人への憧れがあった。天使には何が残せるだろう。天使は子も残せない。しかし人間の繁殖能力は高く、子をなして次代に繋げることが出来る。ならば天使も人間と交われば……?


「人の娘を娶ろうと思う」


 ヘルモン山に集まったグリゴリたちにシェムハザはそう語りかけた。それは役目を降りるという決意の宣言であり、単なる仲間たちへの報告以上の意味を持たない発言だった。しかしグリゴリたちはシェムハザの言葉に異口同音に賛同を示す。

 それに反対したのは他ならないシェムハザただ一翼だった。そしられるとばかり思っていたからこそ、期せずに得られた同意に不安を煽られたのだ。


「しかし君たちが同じようにするなら、その責任は僕に降りかかるのではないか?初めに言い出したのは僕だ。僕がその決断の尻拭いをすることになるのではないのか」

「では誓いを立てよう。我らは決して裏切ることはしない。必ずや、君と共に責任を全うするとも」


 誓いが交わされる。それぞれが美しいと思った人の娘を娶るのだと、グリゴリたちは次々に頂から飛び立っていく。最後に残ったのはアザゼルとシェムハザだった。草木の生えぬヘルモン山の頂で二翼は向かい合う。


「お前が、あんなことを言いだすとは思いもしなかったぞ」

「アザゼル」


 アザゼルの姿に声に、シェムハザの脳裏には湖での光景が浮かぶ。すでにあの美しい湖の景色の記憶はそれに塗りつぶされた。それを必死に打ち消して、目の前のアザゼルへと微笑みかける。


「そうだろうか。実はずっと考えていたのだ。僕たち天使にも、何か残せるものはないだろうかと」

「アダムのように、か?」

「……知っていたのか」


 目を瞠るシェムハザにアザゼルは鼻を鳴らした。密かに抱いているつもりだった憧れを看破されていてことを知り、シェムハザの頬に朱が差す。その様子になおさらアザゼルは呆れて腕を組む。


「受け止めると言っただろう。もちろん知っていたさ。お前の可愛い小さな小さな悩みの正体などな」

「……君にとっては小さくとも僕にとっては大きなものだ」

「分かっている。……娶るのか、人の娘をお前が」

「ああ、誓いも立てた。……それとも君は反対だろうか」

「……いや! まさか!むしろほめてやりたいくらいだ! こんなに面白そうなことを良く考えついた!」


 にっかりと歯を見せて笑うアザゼルに内心でシェムハザはどうしてか胸を撫で下ろす。それに気が付いて、自らの思いもしない反応に首を傾げる。どうして安心などしたのだろう。


「ではな。次に会うときには俺も妻を紹介するぞ」

「ああ。楽しみにしているよ」


 アザゼルが羽ばたき、空へと飛び立つ。その姿を見送り、一人だけ残った山の頂でシェムハザは胸元をきつく握りしめる。ようやく積年の望みが成就しようというのにどうしてか、シェムハザの胸には暗雲ばかりが立ち込める。


 それから人の娘を娶り、間になした子は人の形をしただけの人形だった。その子の様子にシェムハザは愕然とする。子には魂が宿っていていない。それなのに魂のない肉の人形は、あたかも生きているように動き出す。妻や、同胞たちは誰も子らの中身に気が付かず我が子を慈しむ。


「あー。」

「×××……」


 足元に抱き着いてきた我が子、を微笑んで抱き上げる。その幼い体は熱く柔い。生きているのに、生きていない。自らの過ちを理解する。天使に子は成せない。たったそれだけの、分かりきったことだった。過ちにいまさら気が付いたても、すでに皆揃って堕ちたあとだ。

 どうせ堕ちるならば自分だけが堕ちればよかったものをシェムハザは仲間を巻き込んだ。罪を知らない人の娘も、何も知らない子らも、ただひたすらに哀れだった。そんな悲劇を招いたのは他ならないシェムハザだ。


「全て、全ては僕のせい。どうか罰するならば僕だけを……頼む、ミカエル」

「……いいえ。貴方の罪は貴方だけの罪。他のグリゴリの罪もまたそれぞれだけのもの。貴方は己の罪だけを悔い続けるがいい」


 炎の剣を構えた大天使ミカエルはシェムハザと他のグリゴリらの前に立ち塞がり、そう告げる。

 子供たちは魂を持たないが故に成長と共に自らの欠落を自覚していった。そうして、自らの欠けを他で補おうと共食いをし始めた。底に穴の開いた桶は汲めども、汲めども満ちることはない。満たされることを知らない幼子はいつまでも食らい続けた。生命の輝きで溢れていた地上にはいつしか煌々と大地を焼く火が満ちた。

 故に大洪水が起こるのだ。


「これより、貴方たちの永遠は失われる。血肉に身を汚し、人間のように行ったから貴方たちは血肉に縛られ、死が与えられる」


 そうして閉じ込められた地下深く、永劫のような長い時間が過ぎていく。怨嗟と苦渋を叫んでいた同胞たちの声は、一人、また一人と減って仲間たちは死の淵に、それでも救いを求めてシェムハザのもとへ集まり縋り付く。嘆き、泣きわめいては哀れにも醜く、その生を終えていく。シェムハザの周りにはいつしかかつて天使だったものたちの成れの果てが転がった。

 そうでなくとも血肉を得た体は重く、もはや以前のように飛ぶことはできない。シェムハザは座したまま、ただひたすらに罰を甘んじて受け入れる。

 シェムハザは人間が羨ましかった。アダムのようになりたかった。そのかけがえのない美しさに憧れた。それも神の使いでしかない身ごときには、過ぎた望みだったのだろう。


「…………」


 もう誰の声も耳に届かない。シェムハザは何も見ない。本当は、シェムハザが本当に望んでいたのは。


「…………アザゼル」


 シェムハザが最期に漏らした言葉を聞く者もどこにもいない。シェムハザの隣にはアザゼルだけがいない。もうそこには何もない。











「ああ、……シェムハザ。……全く、本当に岩になる奴がどこにいる。……さあ、行こう。また俺が美しい景色を見せてやるからな」


 遠い月日が流れ、黒い翼が羽ばたいた。

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