第36話 Heavy Rain

雨。

 金属質の雨。

 溶融金属の雨。


 街に、道に、ビルに、家に、屋根に、窓に、庭に、木立に、下水溝に。

 人に、髪に、肩に、胸に、つま先に、傘に、靴に、帰り道に、帰る場所に。

 銀色の雨が降り続く。近未来の遠い国。どこかの午後二時三十分。


 月も星も偽者になって、雲の上に隠れている。誰もその姿を見なくなって数十年が経った。今はただひたすら降る雨とともに暮らすだけの空。高層ビルも、電波塔も届かない程度に高く、重くのしかかるほど低い低い黒い濃脂雲塊から滴り落ちるのは今日もHeavy Rain


 訪れる者も居なくなった廃映画館で独りでに回り続ける古ぼけた映写機。ガタゴトと映し出すのは、まだ月も星も空のものだった頃の物語。ネオンサインがバチっと鳴り、円盤が回る。磁気、レンズ、フィルム、光源。何もかも懐かしい。

 色褪せた映像のなかで黒い馬に乗った父と幼い息子が砂漠をゆく。父親はガンマンだが息子は裸だ。一糸まとわぬ姿のまま馬に揺られて旅をしている。半分ぐらい砂に埋もれた修道院に辿り着き、くすんだステンドグラスが嵌め殺しになった窓に父子の影が躍る。飴細工のように揺らぐ画面を引き裂く砂嵐。白と黒の風が画面を縦横に走る、走る。

 

 銀色の稲妻が夜空を貫いて、砂上の修道院の屋根を撃つ。燃え上がる憂鬱の偶像が目を覚まし断末魔を上げて灰になる。乾いた風が祈りの骸を撫でて行く音だけがヒョオと響く。どこにもない、天国への扉など。どこにもいない、神の子供など。


 脳から、肺から、指先からつま先まで。空気を抜く、二酸化炭素を吐き出す。眼を閉じて軽く吸い込んだ呼気をゆっくり、ゆっっくりと。全身の空気と血液が混じり合って、膨らんだ胸と腹の奥を絞って行くほどに体が縮んで、内側の筋肉の奥の奥がググっと伸びる。腹の外側を引っ込めて、へその内側を拡げる。次に鼻から深く吸い込んだ息を全身に伸ばしてゆく。背筋も、首筋も自然と伸びて行く。頸椎のてっぺんが引っ張られていくようで、頭と首の付け根がググっと伸びる。吸い込んで、吐き出す瞬間に一瞬だけ息を止める。ほんの数秒が永遠に感じられるほど長く、心地よい眩暈が脳の裏側を揺らしてゆく。眼を開けると少し背が高くなった気がして、ピンク色の夕焼けも、オレンジ色の電話も、空を歩く魚も、どす黒い脂まみれのくらげも、偽者の月も星も機械の世界も、みんなみんな綺麗に見えた。


 メンソールのタバコは楽園ゆきの片道切符。あの夏の日に僕の隣で微笑んでくれた雪菜ちゃんを探しに行こう。エンジンがうなってアクセルを踏み込んで、僕は高速道路を西へ西へ。鈴鹿、四日市、亀山。渋滞は24キロ。雨ざらしのインターチェンジ、すっかり錆びついた緑の案内看板。幻影と幽霊だけがドン詰まりを起こしている思い出と現実が混じり合うジャンクション。死んでもまだ決まった時間に家を出て、車に乗って、よせばいいのに邪魔な場所で右折する。死ぬまで続いた毎日と、死んでからも終わらない毎日なら、お前の地獄は一体どっちだ。


 バイパスで古いトンネルと真新しいトンネルを交互に抜けると君のいた街に出る。周囲を低い山に囲まれた長閑な盆地は濃脂雲塊の滞留型積乱状態にあり、街に近づくほど雨は激しさを増していた。もはや普通の自動車では道路を走ることはおろかその場にとどまることもままならず、流されるまま僕は街を目指した。崩れ落ちた支柱に半分ひしゃげた案内看板が辛うじてぶら下がっていて、僕の進む先に彼女のいた街があることを示していた。

 降り続いた銀色の雨は重金属の泥濘となって、家もビルも店も滑り台もブランコも重機も電話ボックスも、流れるものはなんでも押し流していった。時々その鈍く光る土石流のなかを巨大なムカデ魚(うお)やヘドロスナメリ、金色の鱗を脂でぬるぬる光らせた一角噛突鮫がざあざあと泳いでいった。


 もうハンドルも動かない、エンジンも役に立たない、旧型のオーディオにセットしたLed Zeppelinが鳴りやんだら僕もきっと最期だろう。思い出の街は道はビルは家は、全て重金属の泥の中に消えていった。君と歩いた遊歩道の吊り橋が、ひしゃげて沈んでいるのも見た。君と二人になりたくて顔も見ずに誘った部屋は名前だけ変えて、かつての建物は骸としてそのまま残っていた。窓も看板も何もかも失くして、廃墟の街に呆然と立ち尽くしていた。

 

 この雨からは誰も逃れられない。ありふれた悲劇と重い足取りと脂にまみれた毎日が何もかも麻痺させて、ただゆっくりと僕たちの暮らしを沈めてゆく。飲み込まれてしまった人を、もうほとんど思い出せなくなっている。目から、鼻から、耳から、口から、指先や足の傷跡から、じわじわとしみ込んだどす黒い脂で腹の奥の奥まで重くざらついた感触に支配されている。腐って、壊れて、沈んでいくんだ。

 

 僕の自動車を飲み込んだ一際大きな脂の波が、窓ガラスを押し割って流れ込んできた。あっという間に泥の中に沈み込んだ僕の口から、

 ごぼり

 とあぶくが一つ、浮かんで行った。それはまるで、泥の中を逃げてゆく、小さなくらげのようだった。

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