第35話 Kraken

静かな海をゆっくり走る、内臓がぎっしり詰まった巨大タンカー。

波の音に紛れて脳裏で微かに響く鼓動。

途切れ途切れのラジオはノイズ混じりの古い歌謡曲。

どこかで降ってる雪が風に吹かれて舞っているような。

目の前を延々と通り過ぎる銀色のタンクを呆然と見送るあいだにも、血が肉が腐ってゆくんだよ。


陽光が海面に反射して金色になった波が寄せては返す。砕けた波頭のしぶきを目で追いながら走る海岸沿いの国道。片側一車線の舗装路が曲がりくねって、遥か向こうまで伸びているのが見える。のどかな集落に見え隠れする鏡の中の道化師。月極駐車場に、とっくの昔に閉店した小さな商店に、郵便ポストに。

どこにでもいる小さな道化師。

このままずっと波を見ていたい。明け方にここへきて、夜になったら帰ればいい。

行き帰りの道のりを考えただけでうんざりしそうで、それ以上具体的な事は考えないようにしていた。行こう、と決めた日に。決めた瞬間に、行きたいと思っているうちに時間が巻き戻されてくれればいいのに。何かをするための時間もお金も足りないのは今に始まった話じゃないが、圧倒的に不足しているのは気持ちの余裕だ。


クラゲが今日も空を泳いでいる。

クジラは今日も街を彷徨っている。

心も美徳も絆も活用せずに生きてきた。心には穴が開いたし、美徳は虫食い穴だらけで、絆なんてあれば苦労しないだろう。でも絆があるが故の苦労のほうがどちらかといえば御免こうむりたいね。


横倒しになった筒状の水槽。あぶく一つ上がらない青く透き通った水の中で。

見上げた空がゆれるゆれる。

プラスチックで出来た魚が笑いもせずに泳ぐ。赤、緑、黄色黄色。

これでやっと忘れられる。これでやっと楽になれる。

目に浮かぶ光景はどれも地獄絵図。それも子供だった頃の自分。

拳、靴底、灰皿、テニスラケットの柄。どんなに楽しくても、どんなに疲れていても、どんなに理不尽でも、どんなに突然でも。

自分に一切非がなくても、自分より力の弱い家族を標的にされても。

逆らい、抗う術など無かった。許されてさえいなかった気がする。

アスファルトに叩き付けられて、部屋の中を引きずり回されて、風呂場で沈められて、好き放題暴力を浴びた後は決まって泣き出し抱きしめてうわ言とも戯言ともつかない呪文を垂れ流しているのを、冷めた心持で聞き流していた。この状況であってすら逆らえばまたイチから暴力なので泣かせるがまま話を合わせていた。死んだ目をしたまま感動の場面をやり過ごして、次に殴られる瞬間までまた怯えて暮らす。

そんな日々ともおさらばできる。水槽の中で泳ぎ回る自分の顔は酸欠気味に笑っていた。


巨大タンカーが通過するのを呆然と見送る。銀色の鏡面タンクが右から左へ、ゆっくり、ゆっっくりと動いている。中身は生きた内臓だと知っている。何故だ。僕は知っているぞ。

これはタンカーなんかじゃない、限りなく無機的な生物だ。

だが見た目はタンカーそっくりだ。それも見たこともないぐらい巨大な。波ひとつない静かな海の上をゆくタンク。視界に入りきらないほどの大きさのタンク。

ドッコン、ドッコンとかすかな鼓動が漏れている。タンクは微動だにしていない。内臓が詰まっているのはきっとタンクの中だけじゃないはずだ。

船体にも船底にもきっとみっちり詰まっているに決まっている。

ここからじゃ見えないがきっと水面下では大きく、淫らに脈打っている部分があるはずなんだ。

そう思ってしまったが最後、もうこのタンカーを目の当たりにしていることがたまらなく恥ずかしく、いやらしいことに思えて仕方がない。


明け方前、暗いうちに家を出る。まだ朝ではないけれど夜は確実に終わりを告げている、くらいの空に名残惜しそうな月と星。少しずつオレンジ色になってゆく空と冷たい風。緑のにおいをたっぷり含んだ空気の粒が霧になって浜名湖から流れ出て、吸い込むと頭の奥からつま先までしみ込んでゆくみたいだ。

影絵のようになった建物と街路樹、見下ろす街は浅い眠りのなか。

背を向けて走り出せば朝陽がバックミラーを刺す。千切れた細い雲をまとった山肌がぐんぐん近づいて、人も車も建物もどんどん減ってゆく。山の上に幾つも並ぶ風力発電のプロペラと、その下にびっしり敷き詰められたソーラーパネル。エコロジーな自然のエネルギーとやらに取りつかれた挙句、本来の自然の景色や情緒が失われていることからは目を逸らしている。

焦げ茶色のソーラーパネルに埋め尽くされた風景を超えてさらに山奥へ這入ってゆく。細く長い道のりを何も考えずひたすら北へ。


触手で埋め尽くされた太陽が引きずり出されて、悲鳴を上げて燃え上がる。

ぼたぼたと燐光をこぼしながら、青く澄み渡った空の上をのたうち回り、千切れた触手はしばらく動いてすぐに干からびた。

触手の先には鋭いキバを持つ口がついていて、一つずつが意思を持っているようにぐねぐね動き回り、手あたり次第に噛みついたり食いちぎったりしている。共食いもする。


外は雨。寒くて冷たくて、嫌な雨。

最近、気が付くと雨が降っている。

なるべく明日が憂鬱になるように。

今日より明日が死にたくなるように。

日々、一日一日が死にたくてたまらないのに、死ぬのに最適だったのはいつも昨日。

昨日より今日、今日より明日がもっと死にたい。

明後日、そんな先の事はわからない。

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