第34話 Silver Bloome
いつからだろう
俺の頭の中に、白くて小さなクラゲのような生き物が住み着いたのは
そいつは俺の頭の中で、いつもふよふよと頼りなさげに浮かんでいた。白いのは頭の部分で胴体と長い触手は鮮やかな赤色をしていて、音もなく風を浴びているように揺れている。今も
俺はコイツに名前を付けた
シルバーブルーメ
ガキのころ見た怪獣テレビで似たような奴が居たのを思い出した。俺の頭の中に住み着いたシルバーブルーメは、そう名付けられたことにも、その名で呼ばれたことにも興味なさそうに揺れている
クラゲのようなヤツであるからして顔も表情も鳴き声もない。目玉すらついていない。口はどうやら触手の奥にあるらしく、たまに逆さまになったりこちらにケツ(?)を向けたまま浮かんでいるときなんかに見ると、ぽかりと暗い穴が開いている。一体何を食っているんだろうか。たまに触手をひらひら動かしている様子から、何か食べているのではあるのだろうが
ある日ふと気が付くとシルバーブルーメが少し大きくなっていた。相変わらず何にも言わず鳴きもせずふよふよと頭の中を行ったり来たりしているだけなのだが、明らかにその脳内に浮かぶ体積が増している。コイツは俺の記憶や感情のなかに浮かぶことも出来るらしく、日常の色々な場面で不意に視神経の奥をスイーっと通り過ぎて行くことがあった
シルバーブルーメが通り過ぎてゆくときは目で見ている景色のなかに半透明になって重なっているのだが、それが少しずつ大きくなっている。確かにそれを感じたのは暮れも押し迫ったある夕暮れのことだった。その日、俺は会社でイヤナコトがあって塞ぎ込んでいた。今まで一生懸命やったのに、気を利かせてやったつもりなのに。良かれと思ってしたことが悉く裏目に出たうえ、待っていたのは労いや感謝ではなく当然と言わんばかりの顔とさらなる身勝手な欲求だった
怒りや悲しみではなく、むなしさとあきらめが心の中で渦巻いていた。今までならその場で怒りをぶちまけていたかもしれないのが今回はそういう感情がスッと消えて、代わりにじくじくとした腹立たしさだけが残った
その、怒りが消え失せる瞬間
シルバーブルーメが視界の奥を音もなく横切っていった。目の前には俺が親切のつもりで言ったことで図に乗ったバカの顔があった。その顔にシルバーブルーメが重なった瞬間。怒りや苛立ちが嘘のように消えていった。そうは言っても記憶が消えたわけではないので、相変わらずあのバカの事は憎たらしいと思う。あんな風に振舞えたらさぞかし人生ラクだろう。だが、またふつふつと怒りが戻って来そうになると、シルバーブルーメがやってきて何にも言わずに通り過ぎて去って行く
気が付くと怒りが失せている
その繰り返し。それ以来何かイヤナコトが怒るたびに、俺の怒りや苛立ちをシルバーブルーメが食べてくれるようになった。いや、ずっとコイツが俺の様々な感情を吸収していて、その結果怒りや苛立ちがコイツの好物だということに気が付いたのだった
俺は怒りを解放した。感情を抑えつけることなく、言われたことや取られた態度に対してあからさまに反応した
だが顔や声に出ることはなくなった
シルバーブルーメが横切って、俺の脳内から怒りと苛立ちを吸い取っていった
だがそれにつれてシルバーブルーメはどんどん巨大化していった
際限なく膨らんでゆくコイツを見てだんだんと恐ろしくなってきたが、もう剝き出しにしたままの感情はとてもじゃないが制御出来なくなっていた。些細な事にも苛立ち、怒り狂ってしまう。だが次の瞬間、スッと消える。怒りがわく瞬間の全身の血の流れが一瞬狂うあの感覚が忘れられない
怒りが収まって行くときの、潮が頭の先から肩から膝へ引いてゆく感触が忘れられない
怒れ、苛立て、イヤナコトを見つけ出して感情を解放しろ
俺は血眼になって生きていた。何が、とか、なんで、とかじゃなく。何かイヤナコトを見つけて歩くようになったようなものだ。もう仕事も対人関係も私生活も何も関係なかった。イヤナコトさえ起こればシルバーブルーメが平らげてくれる。血の流れがサーっと引いて、次の瞬間こみ上げてくるはずの熱い血のエネルギーが音もなく吸い取られてゆく
日々ちょっとしたことに苛立ち、怒りを覚えるようになると疲れてしまう。いちいちエネルギーを浪費しているからだ。だが怒りや苛立ちを吸い取られることでさらにその分のエネルギーを補填せねばならず、いつしかその余剰エネルギーも尽き始めていた
だがシルバーブルーメが俺の心の平穏を許さなかった。俺は怒った、心を振り絞って怒り狂った。その熱量を脳から直接吸い上げてゆく白い巨大クラゲ
いつの間にか、シルバーブルーメは俺を遥かに凌ぐほど肥大化し、ぶよぶよになった体を視界からはみ出させて横たわっていた
浮かぶことも出来ず、ただ大儀そうに触手だけを時折パタパタと動かして
そして遂に俺は倒れた
疲弊しきった精神と衰弱した体が限界を迎えたのだ。冬の寒い夕暮れ時の帰り道。アスファルトに吸い込まれるように倒れた俺の体からシルバーブルーメが零れ落ちて、地面に叩き付けられた
膨れ上がった頭がゼリーのように砕け散って、中から黄色い体液と内臓がドロドロと流れ出てきた。触手だけをじたばたさせ、ひしゃげた口からぶじぶじとあぶくを噴き出して痙攣するシルバーブルーメが、どんどん萎んでゆく
これまで吸い上げたエネルギーを使い果たし、やがて触手も動かなくなり、シルバーブルーメが死んだ。不思議と俺には何の感情も浮かばなかった
その代わりに、深く深く体が地面に沈んでいく感触だけが今は心地よい
ああ、そうか。そうなのか。俺は自分の運命を悟って、オレンジ色の空と雲を見上げた
もう何も視界を横切ることはなくなっていた
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