第33話 毎日微熱生活

あの子を犯そう。

グツグツ煮えた鍋の前に呆然と立ちながら、不意に思い立った。

ボコボコ浮かぶあぶくをかき混ぜながら、ふとそう思い立った。


あの子を犯そう。

3年前は見ず知らずだったあの子を。

2年前に知り合いになったあの子を。

今年の夏までは友達だったあの子を。


子供が出来たらこっそり産んで、殺してカレーに混ぜて食べるんだとあの子は言っていた。黒縁メガネの奥で光る瞳はどこも見てはいなかった。僕は楽しみにしているよ、と同調しながら彼女を貪った。少しきつい体臭が鼻から胸の奥まで広がって、より一層下腹部に力をこめさせた。痛いほど凝り固まった僕は彼女の中で畑に種をまいた。水をやって肥料を与えても芽吹きを迎えるかはわからない。水タバコの煙といっしょに、この部屋の中の空気に交じって消えてしまうだろう。


丸っこいガラスの中で吸い込んでは吐き出されるあぶくの数を数えるだけの日々。生活(くらし)のなかへ溶けて消えてゆく思い出を名残惜しいまま見送って。覚えていたはずの景色も声も汗も忘れてゆく。忘れられないよ、と胸に刻んだ約束も傷跡になって埋もれてゆく。いつか新陳代謝が止まって干からびてゆくときに浮かび上がってくるのかもしれない。


海までうねうね曲がる県道46号線を目指して。真っすぐ伸びた坂道を見上げて。二人で走るはずだった道を一人ゆく。空が青すぎる。海が遠ざかる。波の音だけが頭の中で寄せては返す。空を飛ぶ赤い魚、海で泳ぐ青いくらげ。アクアリウムを凝縮した水晶玉を飲み込んで、夢の生まれる海の底とひとつになる。


後ろめたさの海。隠し事を浮かべた空。真っ黒な雲が押し寄せて土砂降りの怒号を浴びせてまたカラっと晴れて見せる。お前の気が済むまで謝ればいい、お前の気が済むまで暴れればいい、お前の気が済むまで落ち込めばいい、お前の気が済むまで生きればいい、気が済んだら海になれる。

気が済んだら空に帰る。


水晶玉が膨らんで目玉が出来て脳になって神経が伸びて伸びて真っすぐねじれたハイウェイになる。環状線も地下道もバイパスも立体交差を繰り返して広がって行く。動脈と静脈の曼陀羅を敷き詰めて銀河に浮かぶ大伽藍に鎮座して垂れ流す理想の自分と美辞麗句。季節や風景のなかに生臭さを閉じ込めて、目に見えない気持ちや想いや感情だけを吐き出す奴らを一人一人殺して回ろう。


ほっといたって自分なんかより遥かに良い人生を歩み、遥かに良い家に生まれ育って、良い暮らしをしていくだろう。そんな奴らと自分を比べて不愉快になるぐらいなら、初めから何も無かったことにしたらいい。俺なんかそこに居なかった。お前は俺の知らない人。それでいい。残された傷跡は目を逸らしているうちに埋もれて消える。


いつか可愛いと褒めて、ウットリ眺めた横顔の持ち主の顔面を思い切りブン殴って踏みつけて蹴飛ばした。鼻は右に曲がり、目玉は真っ赤に充血して、裂けた唇から血染めの前歯が折れてこぼれた。涙と鼻血と唾液でぐちゃぐちゃになった君の顔が今日は殊の外愛おしい。引き剥がした地味な服、地味な下着に薄黄色のシミ、剃り残したのかこのあとお風呂に入るつもりだったのか少し伸びた腋毛、生えるがままの陰毛。何もかも愛おしい。ダメージを受けて怯え、泣きじゃくり、こっちを睨みつける形相がまた可愛くて背中を強く蹴った。素肌をうっすら覆う産毛や濃い眉毛は大人になったとはいえまだおぼこい証拠だ。さあ、あのバカには残せなかった傷跡を君に刻もう。なんてまどろっこしい言い方するもんか。

黙ってやらせろ、勝手に死ね。


血の流れる音がする。ごおーっと頭の後ろから肩を通って肺の中へ。背中を下って足の先まで満ち引きを繰り返しながらやがて溢れる血潮を感じる。血管の中を泳ぎ回る小さな一つ目の魚の群れが心臓に辿り着くまで。デジタルの数字が減ってゆくのを見て、また君を貪った。もう涙も流さないし嗚咽も漏らさなくなった。ただ光の失せた瞳が天井で泳いでいるだけ。


それでも命は授かるし、カレーの具材は出来上がる。

お腹と胸が膨らんで、どす黒くいびつになった乳首から垂れる母乳は意外と甘くなかった。

妊婦の君も可愛いよ、と呼び掛けても反応がない。むっちりとふくよかになった頬や四肢も動かない。ただ毎日栄養を摂らされて生きているだけの人間ブロイラーの性器と肛門を貪って眠りにつく。

家を出て仕事を飛んで何か月経っただろう。電話も鳴りやみ、探されもしなくなった良い頃合いに突然のたうち回り出した君を見て、考えたことはひとつ。


カレーの準備をしなくちゃ。


狭いアパートの部屋の奥でうめき、叫び声をあげる君を尻目に、冷凍しておいた鶏肉、ジャガイモ、ニンジン、タマネギを細かく刻み、鍋に放り込んで水を入れてガスコンロの火にくべる。

やがて叫び声は二つになり、そのどちらも止んだ頃にカレーが出来上がった。

振り返ると君が立っていた。すっかり大人しくなったカレーの材料を片手に持って、へその緒が繋がったまま血まみれになった君は、赤黒い肉塊をうつろな目で差し出した。それを受け取って細かく刻んで、骨は捨てて、鍋に放り込んだ。あともうひと煮立ちしたら特製美食カレーの完成だ。


毎日、微熱と頭痛に浮かされた生活も終わる。

サイレンと階段を駆け上がる音を聞きながら、ガスコンロのホースをへその緒みたいに叩き切って火をつけた。

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