第32話 No news is good news
ギャーーン!! とケタタマシイ音がして目が覚めた。
夕陽ヶ丘三十二番街の巨大集合住宅。分厚い壁と窓に囲まれた団地の一室。
体内時計のアラームを止めてしまっていたようで、寝すぎたせいか体が重い。血も関節も頭の中までずっしりと不快で、なんとも冴えないお目覚めだ。さっきのニュースが一体何を言っていたのかは結局わからない。軌道交通が運休になったか、各地の季節の話題か、今日お誕生日を迎えた芸能人からの宣伝かなにか。どっちみち聞かなくても構わないことばかりだろう。
寝室を出る前にスイッチを切り替える。睡眠から起床。部屋のあちこちに、団地の隅々に、国中に張り巡らされたダクトの中を満たす様々なガスを用途に合わせて肺に満たし、呼吸を支配する生活にも漸く慣れてきた。だが一向に虫が好かないのが、この
ギャーーン!!
また来た。この公共音波通信ニュース、通称オンキョーにだけは慣れない。実に不快だ。この音波は耳に入ったら最後、人間の聞き取れる限りあらゆる周波数に分解された音声情報が脳に直接浴びせられる。するといいニュースも悪いニュースも嫌なニュースも、全部一瞬で聞かされてしまう。
近所のほっこりニュースも殺人事件も、政治家の醜聞も芸能人の結婚も、行列の出来るラーメン店も、時代遅れの音楽を奏でる変わり者の死も、化学工場の裏で見つかった半魚人と少女の心中も。
全部だ。
今や世界中どこにいても、オンキョーから逃れるすべはない。
ニュースを取捨選択する権利などとうに失われているのだ。無料の動画サイトや検索エンジンにアクセスすればまず初めにギャーン、公共施設に立ち寄ればギャーン、電車やバスに乗ってもギャーン、飲食店でもデパートでも5分に1回ギャーン、だ。ニュースと広告が公共の生活を支配してしまった。そして家に帰っても、ダクトを通して起床・昼食・就寝時の放送が入る。ニュースから逃れることなど、もはや出来っこないのだ。
いつだったか流し込まれたニュースなど、何度思い出しても胸糞の悪いものだった。公共音波通信ニュースがいずれ有料化され、受信料を徴収されることになるという。んなバカな話があってたまるか。欲しくて受信してないような情報が殆どだというのに、それらすべてに金を払えとはどういう了見だ。20世紀の終わりごろじゃあるまいし、冗談じゃない。
しかし。すでに散々ぱら脳に直接浴びせられた情報の暴力は効力も抜群で、頭の中には処理しきれないニュースがどんどん滞留していく。そのせいで新しいニュースに反応し思考を巡らせることが出来なくなってくる。有料化云々のニュースも最早いつの話だったことやら。どんなに不愉快なニュースでも、不都合な政策がなされようとも、それは積みあがったタスクの最下層に埋もれてしまい暫くの間出てこない。ようやく思い出す頃には、また無数のニュースが新たに積みあがっているという寸法で。情報が脳にしみ込んでから自分の意志で理解したことを認めるまで尋常ではない時間がかかってしまうようになった。
いまや、この滞留情報処理不全は深刻な社会問題となっている。垂れ流し放題になっていた情報が人々の脳内を埋め尽くしてしまい、高熱や奇行、重大な犯罪や事故、果てには脳死まで起こしたとの事例もある。そしてその知らせはまたしてもあの不快な音波に分解されて放射される。もはや何を言われても心を閉ざし耳を塞いでいられるようになったのは、情報の洪水で脳が溺れてしまったからなのかもしれない。そしてそれは、あのやかまし過ぎた毎日を思えばかえって好都合にも思えた。真っ赤な目をして、流れる先を失った血液が脳のどこかでブチリと溢れて、何でもいいから手当たり次第に叩き壊すための回路を作って腫瘍になる。そんなのはごめんだ。だけど、このまま情報につかまったままマリオネットになって生きるのも無理だ。ぼんやりと身支度をして、ぼんやりと朝食をとる。窓の外は薄曇り程度だが午後13時34分56秒ごろから冷たい雨が降るということを知っている。ただし、それがいつの天気予報なのか、それはもうわからない。
頭の中で溢れかえった情報の中で溺れるように思い出した。今日はマリーに会いに行く日だ。雨じゃ困る。今日はきっと晴れだ。お空が奇麗だろう。フランス行きの船は紫の空に溶けた水平線を目指して。アタフタと身支度を整える。首根っこに刺さったままの生体プラグを乱暴に引っこ抜き、全身の機械化関節に潤滑油が回るのを確かめて立ち上がる。壁に張り巡らされた半透明の硬化ビニールの配管を人工血液が上ってゆくのを見送って、ぎくしゃくと伸びをする。時計を見れば出かける時間だ。部屋のドアを勢い良く開けて外に出ると、猛烈な暴風雨が吹き荒れていた。しまった、と思ったときにはもう遅かった。一瞬で水浸しになった体のあちこちから雨に交じった高濃度酸性油がなめらかになったばかりの関節や目玉、鼻から口からしみ込んできて溶かしてゆく。熱い、痛い! 錆びるそばから溶かされる地獄の苦しみにのたうち回っていると、血液にも油と雨水が混じってゆくのがわかる。白く冷たいそれが不快な熱と重さを増してゆく。全身の毛細血管に不純物が詰まってみるみる膨らんでプチプチと弾ける音が体内で次々と鳴り出した。苦しい、苦しい、早く、早く部屋に戻らなくては! 気持ちが焦れば焦るほど体の動きはちぐはぐになってゆく。そうしてついに濡れた地面に顔面から倒れ込んでしまった。びだぁん! と間の抜けた音を響かせながらも洒落じゃ済まない事態に陥っている。今ので前歯が折れて逆さまの舌の上に転がったのがわかる。口の中いっぱいに広がる油混じりの鉄の味。ナノマシンの自己診断プログラムがようやく反応したのか体の異変を知らせるブザーが部屋のどこかで鳴っているが、今更何がどうなるでもない。油の混ざった鉄の匂いは胸いっぱい広がって、息をするたび肺が死んでゆくのがわかる。
マリー、ああ。
彼女の顔を思い出そうと頭を上げて手を伸ばす。機械式デジタル義眼に映る映像がジグソーパズルのようにズレて切れ目が出来ている。その細切れの世界の向こうに彼女の微笑みを見た。
マリー、ああ。
ギャーーーーーーーーーン!!
その時、無粋にもあの忌々しいオンキョーが鳴り響き、もはやいつのものだか誰にも分らなくなったニュースを勝手に喚き散らしていった。もう停まりかけているこの頭の中には何も入ってこなかった。良かった、これで静かに彼女を待つことが出来る。なあに、時間はたっぷりある。すぐに来られなくたっていいのさ。
便りがないのは達者な知らせ。
っていうじゃないか。油の混じった雨に打たれながら、うつ伏せで、口から血をダラダラ流しながら。それでも今日はいつもより静かで快適だと思った。
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