第31話 ヒトを喰ったような顔をして君が僕に微笑んだから

 食べる。口に含む。同じ口で、僕を含む。君の真っ赤な唇で。白い歯を見せて。暗い喉を見せて。唾液が糸を引いて。吐息を漏らして。湿った音を鳴らして。

 テーブルを挟んで向かい合う君が料理を口に運ぶ度に僕の視線は釘付けになる。美しく艶かしくもぐもぐ動く君の口許に。美味しいね、と微笑む君の口の動きに。うふふ、と手で覆った口には今、たっぷりの肉が頬張られている。君の口の中いっぱいに、肉が頬張られているんだ。

 ああ、何か食べているときというのは、なんて無防備でいやらしいんだろう。食欲に突き動かされた、剥き出しの人間がそこにいる。だからみんなテーブルマナーだの食事の作法だのを殊更やかましく言うのだろう。それはこれが実にいやらしくみっともないことだと知っているからだ。本当はわかっているんだ。だからお行儀や精神的なもので蓋をして、その手前までしか考えさせないようにしているんだ。命を食べていることまで考えたこともないような奴には、テーブルマナーもへったくれもない筈だ。そして自分だけがお行儀よくありたいと思う連中には、その方が都合が良いのだろう。野蛮で意地汚いと他人をあざけるために自らの食欲と咀嚼を美辞麗句の後ろに隠している卑怯者たちが世の中には大勢いる。

 それにしても僕の目の前にいる君だ。君は実にお行儀がいい。そして実にいやらしい。無邪気に、自然に振る舞い食事をしているが、それがかえって何よりいやらしいということに気付いていない。そのことすらもさらにいやらしさに拍車をかけている。君がそこにいる、そして食事をしているという事実だけでこの世の何よりも美しく、いやらしく、素晴らしい。

 ナイフとフォークを器用に、静かに使って肉を切り分ける。かすかに食器同士の擦れ合う音だけが暗い部屋に響いて、少し赤らんだ君の横顔に跳ね返ってまた部屋の隅の暗闇に消える。細長い肉の切れ端を咥えて口のなかで噛みちぎる。きっと前歯でちぎられた肉は舌と頬を使って奥歯に運ばれて、そこでぐにゅりぶにゅりと潰されて、肉汁と唾液が混じり合い、ほぐれた筋線維やたんぱく質の塊になり、君の喉を通り過ぎることが出来る大きさになるまで噛み潰されてゆく。口の中の感触だけで、中を見て確認することもなく頬の内側や舌の先を使って君は肉を飲み込んだ。そしてコップに入った透明のソーダを飲んで、ひと息ついて君がまたヒト切れ肉を口にした。実にいやらしく咀嚼した。そして僕を飲み込んだ。肉は溶かされ絞られて、またひとつ君の体になってゆく。

 わずか数秒前まではお皿の上の肉だったものが君の白く美しい喉の内側の粘膜の肉洞を通り過ぎて、脈動し酸を噴き出す胃袋のなかで溶かされて、ぎゅるぎゅると収縮する腸で絞られたら、それですべて終わりだ。何事もなかったかのように君は澄ました顔で唇を綺麗に拭いて、コップに入った透明のソーダを飲んで。ふう、とため息をつく頃には、もう君が肉を食べたことなんて世界はまるで忘れてしまったようだ。

 そして、僕もそれで終わりだ。君の血となり肉となって体内を駆け回る、新陳代謝のメビウスのなか自意識が消えるまで君の中に在り続ける。そんな幸せをいま噛みしめているところだ。

 君がまたヒトを食ったような顔をして微笑んだ。誰もいなくなったテーブルの正面に向かって。

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