第41話 Strange gene (7)
飲みきったチルド飲料の容器を捨て、縮みきっていた身体を伸ばす。三浦氏の迫力はやはり尋常ではなく、さすがに緊張した。
収穫もあったが、とんだ災難だ。肩を回しながら待合室を見渡して、はっとする。
「こんにちは」
「あれ、こんにちは。またお会いしましたね。今日はお見舞いですか?」
「そうです。終わったところですけど」
疲れきった状態で話しかけるべきか迷ったが、思えばこれが本来の目的だった。運が良いのか悪いのか。
「今日も診察ですか?」
「今日は私じゃなくて、息子です。何かでかぶれちゃったみたいで」
かぶれた部分が痒いせいか、男の子は機嫌が悪そうだった。長話するのは避けたほうがよさそうだ。
「毛虫とかですかね。見てもわかりませんけど」
「本当はこの後、事務所に伺うつもりだったんですけど。直前で申し訳ないです」
「いえ、お気になさらず。面会の時間は融通が利きますから」
ふと、奥方の日焼け跡が目に入る。あらためて見ると、男の子も皮がめくれるほどに日焼けしていた。
「もしかして、海かプールに行かれたんですか?」
「ええ、実家に帰りがてら、海水浴に。目のことを考えると、本当は良くないんですけどね」
「やっぱりそうでしたか。でも、クラゲではなさそうですよね」
そんなどうでもいい会話をしてから親子と別れ、病院を出る。海水浴に行ったのが遺伝子検査の結果を知る前でよかったかもしれないなと、余計なことを考えた。
***
「ご主人も一緒にご実家に帰っていたかはわかりませんが、日焼け具合を見ればわかるはずです。でもなんとなく、家族そろって出かけたのではないかと。何せ海ですし」
陽は複雑そうな表情で、「早く知らせたほうがいいな」と、依頼人の目の心配をしている。それほど神経質になる必要があるのかはわからないが、労わるに超したことはないだろう。
「陽さん気にしすぎでしょ。そんなに心配しなくたって、いつも通りお伝えして、必要な処置だけ検討すればいいじゃないですか」
日が経ってどうでもよくなったのか、白井さんは飄々としている。しかし白井さんの言い分はもっともで、今回は陽が神経質になりすぎているように見えた。
「それはそうだが」
「陽さんユダヤ教徒でしたっけ?」
「まさか」
ユダヤ教では、
「トラウマじゃなくて対岸の火事だ。同業の知り合いが受けた案件だが、遺伝子検査の段階で筋萎縮性側索硬化症(ALS)の遺伝子疾患が発覚して、その後いろいろあって離婚という依頼人がいたんだ。その後のいろいろが不憫な話で、結果的に知り合いは仕事を辞めた」
白井さんが「ひぃ」と慄く。当然ながら、他人事ではないのだろう。
「それはもうトラウマですよ。でも今回の案件って、その話が引き合いに出されるようなものですか?」
「ALSはインパクトのある病気だから、フィクションでやたらショッキングに扱われるだろ。だが実際のところは、若い世代で発症することはそう多くなくて、六、七十代で発症することが多いんだ。知り合いの説明の仕方が特別まずかったわけでもないんだが、劇的な発症が依頼人の頭に刷り込まれていたせいで、ヒステリックに拍車がかかったらしい。どう考えても理不尽な苦情による苦痛だって、精神には確実に異常をきたすものだろ。……つまり直接的には関係のない話なわけだが、どうしても
依頼を受ける過程で親の潜在的な遺伝子疾患が発覚するという点では、確かに共通しているだろうか。しかし奥方はすでに発症しているわけだから、夫婦共に疾患に対する理解は深いはずだった。首をひねっていると、白井さんが渋い顔のまま補足する。
「今回の依頼人には、すでに息子さんがいるわけですしね。しかも、息子さんも全く同じ遺伝子疾患をもってる。次の子だけが遺伝子操作で回避っていうのも、なんだか複雑だなあ」
「そして、無自覚の近親婚というリスクも上乗せされている。ここで夫婦に知られなかったとして、後々発覚したらと思うと気が気でない。先述の通り、理不尽な恨みが一番恐ろしいからな」
「かと言って、こちらから打ち明けるわけにもいかないし」
遺伝子情報を預かる以上、思わぬことをうっかり知ってしまうことも多いのだ。もちろん我々には守秘義務が課されているが、当人が知らないことまでわかってしまった場合、どこまで秘匿すべきかの判断が非常に難しい。場合によっては、告げても告げなくても地獄を見ることになる。
「ちなみに大手事務所では、どう対応するんですか? 近親婚のほうで」
「難しいほうを訊くね。似たような状況に出くわしたことがないからわからないけど、各社の規定に沿って対応するのがセオリーだと思う。となると、違法性が認められたので受けられませんってのが無難かな。法律の専門家を横に置いて、仰々しく事実確認するんじゃない?」
「その後を想像すると、各方面から恨まれそうですけど」
「大手なら、組織的な決定ですって顔しておけばいいからね。もちろん恨みが個人に向くことはあるけど、カバーできる人間も多いのが利点だから」
実際、「組織的な決定」というやむを得なさそうな理由は、告げる側にとっての後ろめたさも緩和する。逆に言えば、個人事務所にはその言い訳が利かない苦しさがある。この事務所は人数が少ないのでなおさらだ。
「違法性が認められたのでお断りって対応は、まあできないですよね」
「論外だな」
「個々のレベルでは大して意味のない法律だしね。社会的には必要なんだけど」
その苦々しさを三人で噛みしめた後、「いずれにせよ、白井の言う通りだけどな」と、陽が諦める。
「少なくとも奥方はヒステリックじゃなさそうですし、今回のところは大丈夫じゃないですか?」
「まあ近親婚のほうも、今まで気づかなかったほうが不思議なくらいだしな。誰かが必死に隠していたわけでもなさそうだが」
奥方が実家に帰っていたところから察するに、両親との関わりが一切ないわけでもなさそうだ。もちろん奥方の両親が隠している可能性もあるが、そうであればなおさら、我々は近親婚の事実を隠しておくべきだった。
「息子さんの遺伝子疾患のほうも、その恐れがあったから検査しているわけですし、やっぱり恐れることはないですよ。わかっちゃった以上、もうどうしようもないし」
やはり白井さんの言っていることは正しいのだが、案件を主導している陽にとっては楽観にすぎないらしい。陽は恨めしげに、「元も子もないことを」と、文句を言っている。
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