第38話 Strange gene (4)

「確率が低いとはいえ、近親婚以外で遺伝子型が一致することもあり得なくはないんですよね? それで押し通してもいいんじゃないですか?」

「まあそうなんだけど」


 白井さんが歯切れの悪い言い方をするのは珍しい。それだけで十分察しがついたが、敢えて口に出さずに陽を見る。


「息子さんには、他にも遺伝性疾患が?」

「検査でわかる範囲では、見つかってない。近親婚だからといって、遺伝性疾患の可能性自体はそう高くないものだし」


 ならば何が問題なのか。ここまで聞いてわからないほど、私は鈍感ではなかった。おそらくあのご夫婦は、法律で禁止されているレベルの近親婚なのだ。


「近親婚のほうを通知する義務はあるんですか?」

「そんな義務はないだろうが、それを匂わせるのですら気が進まない事態なんだ。とはいえどうなってそうなったのかは、知っておいたほうが安全かもしれない」

「では古田さんの出番ですか」


 陽が本気で嫌そうな顔をして、「これ以上借りを作りたくない」とぼやく。


「それとなく聞いてみます? そういえばこの前、奥さんと病院で会ったんですよー」

「その前に、お互いのご両親は気づかないんですかね。もしかして、特別養子縁組でしょうか」


 思い返すと、依頼人夫婦の年齢は十歳以上離れていた。それだけで判断はできないが、信憑性は多少増すだろうか。そんなことを考えている間にも、陽の眉間の皺は深まっていく。


「いや、下手に動かないほうがいい。ひとまず事実だけを伝えることにする」

「近親婚も事実でしょうに」

「それはそうだが、依頼に関するほうの話だ。余計なことを言わなければ、問題ないだろ」

「よっぽど大丈夫だと思いますけど。でも、なんだかなあ」


 白井さんは不満げだったが、それ以上何も言わなかった。陽と顔を見合わせる。


「もし機会があれば、ご家庭の様子くらいは私から伺いますよ。息子さんがいらっしゃるので、話題に出しやすいですし」

「ああ、機会があれば、頼む」


 機会なんてあるのだろうかと自分で思いつつ、あの病院を訪れる口実を考えている。もちろん病院を訪れたところで、依頼人に遭遇する確率はかなり低いわけだけれど。


***


 小気味いいほどの雨音を聞きながら、観葉植物についた埃をふき取る。電車が止まる前に帰れという陽の勧めにより、白井さんはすでに帰宅していたため、事務所は静かなものだった。


「気づいてるか?」


 陽が唐突にそう尋ねるので、私は周りを見渡してから、「何にですか?」と、怯えながら訊き返す。


「白井が変わってきてる」

「皿を出したり?」


 陽が眉をひそめ、「皿は知らないが」と、大真面目に言った。


「さっき、浜島さんも同じようなことを言っていたんです。家事に対するやる気が芽生えたようで、具体的には皿を洗うようになったって。浜島さんは変だと言ってましたが」

「それは変だな。関係があるのかは、わからないが」


 陽はキーボードを叩く手を止め、考え込むような仕草で口元を隠す。


「丸くなったというか、切れがなくなったというか。少し前まではもっと、発言が激しかったはずだろ。最近は慎ましくなった気がして」

「ああ、はい。そうですね」

「別にそれが悪いってわけじゃないんだが」


 陽はしばらく黙り、言いにくそうに視線を泳がせている。それをまじまじと見るのもどうかと思い、観葉植物の葉を意味もなく撫でることにした。


「白井の鋭さは、この事務所に必要なものだと思ってる。俺には無いものだし、女だからわかるって程度のものでもない。もちろん技術的な能力も買ってるが、白井を呼んだ一番の理由がそれなんだ」


 それは聞かずともわかることだ。白井さんの洞察力はずば抜けているし、穿ちすぎな見方だとしても、本質を見抜いていると思わせる説得力がある。私は仮にも同僚にあたるわけで、その能力が業務において強みになることも実感していた。


「それがいずれ鈍くなることも、想定はしていたけどな」


 この職に就く女性は、結婚や出産を意識し始めた途端に、案件を他人事として見られなくなる。そう言っていたのは白井さんだが、陽も目にしてきた現象なのだろう。


 最近の白井さんの変化は、彼女の人生観が変化したことによるものだ。それは火を見るよりも明らかで、陽もとっくに気づいているはずだった。


「俺がどうこう言えることじゃないのはわかってる。祝うべきことだとも思う。もしかすると、別の強みになり得るのかもしれない。ただ、本人がそれを自覚するのはきついだろうし、何より技術者としての白井を失うことになるのは……惜しい」


 重苦しい沈黙をかき消すように、容赦のない雨音が響いている。もしかすると私は今、大雨に救われているのかもしれない。そんな、どうでもいいことを考える。


「白井さんはわかってますよ」


 陽が顔を上げ、不思議そうな表情で瞬きする。


「仕事を続けるうえで、結婚や出産が悪い方向に作用する可能性があることを、白井さんはよくわかってるんです。わかっているからこそ、これまではそういう将来を考えないようにしていたんだと思います。でもまあ、近頃いろいろあったわけで、目を瞑りきれなくなったんじゃないですかね。そうなった時点で、以前ほどの切れが復活することはないかもしれません」


 いろいろあったと言っても、やはり決定打は妹さんの結婚だろう。浜島さんとの関係はもっと前から始まっていたわけだし、浜島さんと交際するにあたって、少なくとも白井さんの頭に「結婚」という文字はなかったはずだ。


 結婚を意識し始めた時点で、白井さんはすでに変わっている。それは、変えようのない事実だった。


「だけど、仕事を諦めたわけじゃないです。白井さんのなかではやっぱり、仕事が最優先なんです。もちろんそれは現時点での話ですけど、そこに嘘や迷いはないと思います。だからまだ、心配しないでください」


 白井さんの洞察力は、良くも悪くも人間不信に由来するものだ。結婚や出産を経たところで損なわれるようなものではないように思っているが、無責任なことは言えなかった。


「確かに、決めつけるのは早すぎるな」

「そうですよ。だいたい、結婚出産を経た女性技術者が業務を離れるというのは、大手事務所での話ですよね。心境の変化以外にも、原因はいろいろあるはずですよ。仮にそうでなくても、白井さんが例外になる可能性は高いと思いませんか?」

「まあ確かに」


 陽はかすかに笑い、ディスプレイに向き直る。陽が作業に戻ったことを確認し、私も作業を再開しようと思った矢先、「ところで」と声をかけられた。


「ユイは考えてるのか? 今後のこと」


 思わぬ方向転換に狼狽えながら、「今後とは」と、いちおう尋ねる。


「就職とか」

「あ、そっちか。院には進むつもりですけど、その後のことはまだ考えてなくて」

「それこそまだ早いか。分野も決まってないわけだし」


 陽はそう言いつつ、机の下に潜るようにして足元をまさぐり始める。何をしているのかと覗き込んだところで、机の下から分厚い本が登場した。


 私がその表紙を確認する前に、「同業者になる気はあるか?」と、陽が冗談めかして尋ねる。


「え、考えたことなかったです。私の専攻でも資格とれるんですか?」

「単位にもよるが、もし足りなくても講習を受ければ受験できる。だいたい生物系なんだから、大枠としてはまさにそうだろ」

「言われてみればそうですね。正直、遺伝学系の研究室はナシだったんですけど」


 陽が目を丸くして、「なぜ?」と尋ねる。


「教員を含め、ラボの雰囲気が肌に合わなくて」

「ああ、そっちか。まあ正直、資格を取るにあたって所属研究室は関係ないからな。院に進むならなおさら、研究室は肌に合わせたほうがいい」


 参考書をあらためて受け取り、軽く想像してみる。同業者になるなんて、本当に考えたことがなかった。


「考えてみます」

「ああ。参考程度にしてくれ」


 試しに少しだけ読んでみるかと椅子に座ったところで、スマホが鳴った。

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