第36話 Strange gene (2)

「そこのお姉さーん」


 まさか自分のこととは思っておらず、こちらに向かって来る男を見てぎょっとする。だいたい、見知らぬ男にお姉さんと呼ばれる筋合いはない。


「オープンでバイト募集してるんですけど、飲食店とかどうですか?」

「あー、結構です」


 こんな胡散臭いやり方でバイトを集める人員が無駄なのではと思ったが、宣伝としてはありなのかもしれない。


「友達でバイト探してる子とか」

「いないですねー」

「じゃあ、チラシだけでも」


 仕方なく受け取ると、男はすぐに別の男性に声をかけに走っていった。あちらには、新しくオープンする飲食店の宣伝として声掛けしているらしい。チラシに載せられた写真を見るに、ガールズバーという類いの飲食店のようだ。


「お、ナンパか?」


 見上げると、古田氏がコーヒー片手にチラシを覗き込んでいた。多少驚いたが、先刻ほどの衝撃はない。


「違いますよ。古田さんどうですか」

「そういう趣味はない。これからデートか?」

「その帰り道です。古田さんは」

「ちょっと買い物に」


 古田氏はそう言った後で「本当にデートか?」と尋ねたが、笑って流しておく。


「まあいいや。この後の予定は?」

「特には」

「なら、ちょっと付き合ってくれないか? すぐ近くなんだ」


 唐突な申し出に眉をひそめたが、断る理由が咄嗟には思いつかず、「構いませんが」と答えている。


「よし。じゃあ行こう」


 どこに向かうのかもわからなかったが、ひとまず古田氏についていくことになる。駅の近くにあるものが多すぎて、思い当たる場所もなかった。


「今さらですが、どこに行くんですか」

「病院」

「病院?」


 そういえばつい先日、白井さんも見舞いに行っていたような。とはいえ、それとの関連を疑うのはさすがにこじつけが過ぎるか。先程のチラシをたたみ、通り道にあったゴミ箱に捨てる。


「診察の付き添いじゃないですよね」

「まさか。見舞いだよ」

「誰のですか」

「着いてからのお楽しみ」


 入院している相手に対して不謹慎だろうに。まずそう思ったが、そもそも正体を楽しみにできる見舞い相手などいなかった。


 まるで見当がつかないまま、駅前にある病院の待合室に着く。平日の昼過ぎだったが、待合室は主にお年寄りで混雑していた。医療の進歩と高齢化を、痛いほどに感じられる光景である。


 待合室を通り過ぎる際、走り回っていた男の子とぶつかりそうになる。謝りながら駆け寄ってきた母親を見て、「あ」と声を漏らす。


「あ、事務所の……」


 つい先日会ったばかりの依頼人だった。「奇遇ですね」と、当たり障りのないことを口にする。


「すみません。落ち着きがなくて」

「いえ。男の子ですし、やんちゃ盛りですもんね」


 古田氏は会話から察したらしく、少し離れたところで待機していた。それを確認してから、「診察ですか?」と尋ねる。


「はい、目の定期検診で。今のところは、手術が必要なほどではないんですけど」


 網膜色素変性症の一般的な治療法は、遮光眼鏡の着用やビタミン剤の内服など、症状の進行を遅らせるものが中心だ。外科治療を予定していないのであれば、しばらくは経過観察を続けることになる。


「あれ? ユイちゃんじゃん」


 振り向くと、壁際の通路に白井さんが立っていた。ワンピースにハイヒールという、明らかに外向きの格好だ。


「え、白井さんがなぜ」

「あれ、こんにちはー。奇遇ですね」

「すごい偶然ですね。おふたりはお見舞いですか?」


 首を振って古田氏を探すが、さっきいた場所から忽然と消えている。さては逃げたな。


「私はそうです。ユイちゃんは?」

「私もそうなんですけど、連れが迷子ですね」

「あら。お邪魔しちゃいましたか?」


 ちょうどその時、女性の足元で男の子がぐずり始めた。女が集まり始めたために、長話になることを危惧したのかもしれない。賢い子だと、勝手に感心する。


「いえ、お構いなく。こちらこそお邪魔しました」

「いえそんな。またよろしくお願いします」


 女性と別れ、廊下でスマートフォンを取り出す。古田氏に発信すると、待合室の隅でこそこそと動く人影が見えた。


「連れってアレ? 古田さんだよね」

「はい。実際は私が連れなんですけど」


 白井さんを見た古田氏が両手を挙げ、「タイミングが悪かった」と、白状じみたことを言う。


「あたしは別にいいですけど、ユイちゃんを巻き込まないでくださいよ」

「ん、どういうことですか?」

「えっとね」


 白井さんは髪をかき上げてから、「ま、いっか」と独りごちる。


「この前、隠しカメラを仕込みに来た人がいたじゃない? あの人の雇い主が、ここに入院してるの」

「へえ。ということは例の、浜島さんの父親かもって人ですか?」

「まあそうね」


 なぜ白井さんが見舞うのかという疑問は、聞かずとも察することができた。わかりやすく眉を寄せて古田氏を睨み、「趣味が悪いですね」と毒づく。


「姉さんが来てるとは思わなかったんだよ。まあ俺が姉さんに教えたんだが、本当に行くとは思ってなかったし。で、どうだった?」

「手術は成功したみたいですよ。見た感じは元気そうだし」

「そうじゃなくてさ」


 白井さんは少なくとも二回、その男性の見舞いに来ているはずだった。そして白井さんの口ぶりからして、それなりに親睦を深めているのだろう。


「じゃあ一緒に行きます? 私は行ったばっかりですけど」

「まあ、せっかくお嬢も連れてきたことだしな。賑やかでいいだろ」

「私の意向が蔑ろにされてませんか」


 ろくに文句も言えぬまま階段を上り、個室の前に到着する。白井さんがノックし、静かに戸を引いた。


「また来ちゃいました。今度は古田さん付きで」

「ええ? なんだか賑やかだな」


 ベッドに座っていたのは痩身の男性だった。おそらく還暦前後なのだろうが、引き締まった身体のおかげで若く見える。血色こそ悪いものの、病人らしい弱々しさはなかった。


「そちらは?」

「同僚かな。うちのバイトの子」


 何と言うべきか迷い、とりあえず「はじめまして」と挨拶する。


「はじめまして。いやあ、古田さんの隠し子かと思ったよ」

「まさか。あんたと一緒にしないでくれよ」


 男性は声を立てて笑ったが、その目は笑っていなかった。私はそこに遺伝という神秘を感じ、夥しい数の花に現実を見た気がした。

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