Strange - 奇妙な, 見知らぬ
第35話 Strange gene (1)
「お金払ったほうがいいのかな」
「え? 誰に?」
「山田さん」
母はよく、会話における脈絡を忘れる。私や父がそれに適応したため、脈絡が無くても成り立つことのほうが多かったりもする。
「おばあちゃんに付き合わせちゃって、ある種の介護みたいなものじゃない。仕事してないなら、いっそ家の手伝いもしてもらえばいいし」
「いや、それは良くないと思う」
私が思いのほかきっぱりと言ったせいか、母が面食らった顔をする。
「なんで?」
「山田さんは、もっと人間関係を広げたほうがいいと思う。一部の人としか付き合ってないと、依存度が増すから」
「それはそうね。でも、仕事探してる様子ある?」
山田さんとはよく顔を合わせる仲だから、母も心配しているのだろう。私は首を横に振る。
「介護関係だと、体力的にも精神的にも不安だから」
「それ以外の道は?」
「すぐには見つからないよ。病み上がりだし、慎重にもなるでしょ」
山田さんの場合、職歴がないうえに精神疾患を抱えている。アルバイトやパートであっても、それを知って快く受け入れる職場は稀だろう。この人手不足の世だからこそ、人手不足を助長しかねない人員を雇う職場はない。実際の働きぶりはさておき、書面上ではその手の人物に映る。
「でも結局、あの人は仕事するのに向いてなさそうだよね。専業主婦に向いてるタイプだと思う」
「ん、嫌味?」
「まさか。専業主婦に向いてるのだって才能でしょ。私は無理だけど、そういう人を求めてる男性は少なくないじゃない。女は家庭にってのも、ある意味合理的だしね」
母は柔軟な考えの持ち主だ。祖父に似たのかもしれない。
「その少なくない男性と、出会えればいいのかもね」
「えー、そういう男にろくな奴はいないと思うよ。二の舞になるだろうし」
母があっけらかんとして言うので、私は脈絡を見失って途方に暮れる。
「さっき言ってたことと矛盾する気がするんだけど」
「これは経験にもとづく持論だから」
持論であることを前提にすれば、何を言っても間違いではないというのが母の持論だった。そして、「持論を一般論として語る人間は信じるな」というのが、母の教えである。
「金を稼いでいない女は、それだけで立場が弱いでしょ。専業主婦を好む男は、そこに漬け込んで優越感に浸るんだよ。ま、そういうのに振り回されるのが幸せな人もいるわけだけどね。多様性の時代だから」
「それは多様性というか、前時代的だけど」
今の時代、女性が働き続けることは当たり前といえる。専業主婦の女性も少なくはないが、その多くはやむを得ない事情があるか、夫の稼ぎが良くて働く必要がないかのほぼ二択だった。つまり、専業主婦であることに対する理由が必要なのだ。しかし働きたくない女性はもちろんいて、女性の多くがそれを密かに望んでいるから、異端者として認定されることもない。その結果、多様性の尊重より、「家庭の事情に口出ししてはならない」という暗黙の了解のほうが定着した。
多様性を推し進めると、誰ひとり世界に適さなくなるような気がする。それが平等であり平和だというのなら、正しいのだろうけれど。
***
「見えづらさを感じ始めたのは最近のことです。病院に行って、遺伝する病気だと知りました」
今回の面会は、子連れという珍しいケースだった。子どもは二歳くらいの男の子で、落ち着きが五分ともたない。
「網膜色素変性症ですか」
網膜色素変性症とは、平たく言えば遺伝性、進行性の視覚障害だ。発病すると、網膜にある視細胞の異常によって、視力の低下が引き起こされる。視細胞は光の刺激を電気信号に変えるセンサーの役割をしており、ここで言う視力とは矯正視力のことだ。つまり、眼鏡やコンタクトでは視力が回復しない。
「遺伝子検査をするなら、こういった事務所のほうが詳しいと聞きまして。息子が同じ病気を持っていないかも気になりますし」
網膜色素変性症の遺伝子異常は多様であり、発症の時期や症状の度合にも個人差がある。常染色体劣性遺伝を示すタイプが最も高頻度のようだが、常染色体優性遺伝やX染色体劣性遺伝を示すタイプもあり、その一方で明らかな遺伝が確認されないことも多いらしい。
「調べてみるほかありませんね。遺伝性と言っても、まだ明らかになっていない遺伝子異常が少なくない病気です。既に知られているものが見つからなければ、遺伝子操作を行うことはできません。そこはご了承いただけますか」
「はい。その場合は検査だけで構いません」
手順通りに資料を渡そうとしたところで、ふと気になって尋ねる。
「見えづらいと仰っていましたが、こちらの資料でよろしいでしょうか?」
「色使いによっては見にくい時もあるんですが、これくらいなら大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
奥方が会釈するのを、男の子が不思議そうな顔で見ていた。次に私を見て、「ばいばい」と手を振る。私も「ばいばい」と手を振り、資料を渡してさっさと退散した。
***
「見えづらさにもいろいろある。典型的なものは、コントラストが低いと読みづらいとか、暗いところでは見えづらいといった、いわゆる弱視だな。網膜色素変性症の場合、まったく光が見えなくなることは滅多にないらしい」
陽はキーボードを鳴らしながら、原稿を音読するようにさらさらと説明する。
「よくある病気ですか?」
「遺伝性疾患としては頻度の高いほうだが、依頼ではそこまで多くない。若いうちは気づかないことも多いからな」
「治療法は?」
「最近は根本的なものもいくつかあるが、いずれにしても簡単に治せるものではない。たとえば、人工網膜の移植とか」
その他は対症療法に近い。遺伝子異常を確認できればの話だが、やはり遺伝子操作は予防として有効だった。
「あたしは担当してないけど、前の職場でもちらほら依頼があったみたいだよ。聞いた話、遺伝子異常を見つけられないケースも少なくないんだって。おまけに大手だと、確実に証明された遺伝子に限定しがちだから、うちに頼んで正解」
白井さんがマスカラをつけながら補足する。その珍しい光景に、「お出かけですか?」と、なかばお約束のように尋ねる。
「ちょっとねー」
「仕事中に化粧するなよ」
陽が苦言を呈するが、白井さんはお構いなしだ。そもそも陽だって、本気で咎めているわけではなかった。
「お見舞いに行こうと思って」
「お見舞い? 誰のですか?」
「知人」
知人と言われると追及のしようがなく、私の知らない相手なのだろうと解釈する。その一方で、知人の見舞いに行く場合も白井さんは化粧をするのかと、どうでもいい発見をした気分だった。単純に、化粧をして会うべき知人なのかもしれないけれど。
「ちょっと早いですけど、お先に失礼しまーす。あ、ユイちゃん、冷蔵庫のジュース飲んでいいよ」
「え、ありがとうございます」
ピンヒールをコツコツと鳴らしながら、白井さんは颯爽と事務所を出て行った。これも珍しいことで、思わず首をひねる。
「何か聞いてます?」
「いや、何も」
白井さんが隠し事をするのも珍しいなと思いつつ、冷蔵庫を開けて紙パックのジュースを取り出す。念のため確認した賞味期限は二日前で、白井さんの成長をしみじみと感じた。
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