第32話 Romantic gene (9)
事務所に向かう途中、駅前の人混みで頭ひとつ抜けている長身の後ろ姿を目で追っていた。人がはけてから、それが見覚えのある男性だと気づく。
「古田さん?」
「お、お嬢」
「仕事中ですか?」
「これからだ。ちょうど、事務所のほうに向かってた」
古田氏は黒シャツに黒いパンツという、人を選びそうな格好をしていた。さらに胸ポケットには、いかついサングラスがかかっている。それでも、古田氏が身につけていると違和感がなかった。
「何かわかったとか?」
「報告に来たんじゃない。ネットだけでは不足だから、足を使うことにしたんだ」
古田氏が苦戦するとは、相当厄介な相手なのだろうか。今のところ実害がないから、後回しになっているだけかもしれない。
「事務所とは関係がなさそうって話でしたよね? この辺で調べることが?」
「あらためて、少し気になってな。例の封書、マンションの他の住民には届いてなかったようで、やはり個人を狙ったものに思えるんだ。もしかすると犯人は何度か尾行に失敗していて、やっと自宅を突き止めたのが、スーツケースを引いていたあの日なんじゃないか?」
そうなると、犯人はそれまでにも何度か、白井さんを尾行していることになる。
「ネット上では、すでに調べたんですよね?」
「まあな」
古田氏のねらいがわからないまま、事務所のある雑居ビルに着く。私はそのまま事務所に向かおうとしたのだが、古田氏はそれに続かず、階段を上がっていく。
「あれ? どこ行くんですか?」
追いかけてみると、古田氏は上の階の廊下できょろきょろしていた。浜島さんの所属する法律事務所の前だ。
古田氏の視線が定まり、共用のトイレに入っていく。古田氏が入ったのは男子トイレのほうだ。しかし間違いなく、用を足しに入ったのではない。
出てきた古田氏は、万年筆のようなペンを持っていた。それがただのペンでないことは、何となくわかる。
「ちょうどよかった。女子トイレのほうを頼む」
探してみたところ、それらしいものは見つからなかった。そもそも、素人には無理なのではなかろうか。
「私が立っておくので、古田さんも探したほうが確実です」
そうして古田氏に探させたが、結局のところ、不審物は見つからなかった。
「下の階も見ますか?」
「もう少し、この辺を調べてみる。お嬢は出勤して来い」
そう言われたので階段へ向かう。すると、作業服を着た男性とすれ違った。いかにも清掃員という格好で、両手に掃除用具を持っている。
足を止め、はてと考える。このビルの清掃は、朝に済ませているはずだ。それに、作業服の色が違う。
じろじろ見ていたせいか、作業員が足早になる。若いのは見てわかるが、やけに身軽なように思えた。
「お嬢ー、まだ時間あるのか?」
私の足音が止まったからだろう。古田氏が声をかけてくる。
「ありますあります」
引き返し、作業員の背中を追う形になる。作業員の向こうで、古田氏が振り向いた。
作業員の反応は速かった。古田氏がペンを持っていることに気づいたのか、それとも古田氏の見た目に怖気づいたのかわからないが、古田氏と目が合うより先に、すばやく踵を返した。さりげなく立ち去ろうとしているのが逆にあやしい。
作業員と目が合う。そこで気が動転したのか、作業員が突然駆け出し、彼の持っていた掃除道具の柄が顔めがけて迫ってくる。
「古田ッ」
反射的に腰を下げ、重心を低くして躱す。それとほぼ同時に、古田氏が取り押さえに入っていた。
しばらく揉み合った後、古田氏が「よっこいしょ」と言いながら、おもむろに起き上がった。抵抗虚しく羽交い締めにされた作業員は、足がほとんど浮いている。決して非力ではないのだろうが、体格の良い古田氏に歯が立たないらしい。
「大丈夫か? お嬢」
「私は何とも」
その騒ぎを聞きつけて、法律事務所からぞろぞろと人が出てくる。陽と白井さんも、おっかなびっくり階段を上ってきた。
「ユイちゃんどうしたの」
「いや、古田さんと駅前で会って」
「そこから説明する?」
白井さんは取り押さえられている作業員を見て、「痴漢かあ」と、見当違いな答えで納得する。
「ほんとに不審者なんだよな? ただの清掃員だったら困るぞ」
「この時間に清掃員は来ないはずです。それに、制服が違います」
「トイレが詰まって呼び出したかもしれないだろ」
「緊急で呼び出されたにしても、装備が貧弱すぎますよ。それでトイレの詰まりが解消されるなら、道具漁って勝手にやってます」
法律事務所の人々も、顔を見合わせてうなずき始める。「呼び出してないよね?」だとか、「たしかに違うな」などと、口々に言っていた。そして、古田氏をちらちらと気にし始める。この見慣れない男は誰なのかと視線で問い合い、首をかしげて戸惑っている。
陽がうんざりした顔で、「どっちも不審者だ」と呟く。
「どうしたんですか、皆さん勢揃いで」
法律事務所から、浜島さんが優雅に登場する。あまりに場違いな雰囲気で現れたせいか、一同の視線が移った。
浜島さんは相変わらず余裕の表情で、古田さんと不審者の顔を一瞥する。浜島さんは何も言わなかったが、浜島さんと目が合った不審者が、「あ」と声を漏らす。それを聞いた白井さんが、楽しそうに指をさす。
「ハマの知り合い?」
「存じ上げませんが」
「じゃあ片想いかな」
「新たなストーカー」
陽がうんざりした顔で、「どう拗らせたらそうなるんだ」と呟く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます