第31話 Romantic gene (8)
「アトピー性皮膚炎は、今でも未解明な部分の多い疾患です。遺伝的要因が明らかになっている最中で、完全な予防には至らない可能性が少なからずあります。しかし遺伝子操作を行うと、軽度で済む可能性が高くなるという報告もあります」
陽は淡々と説明し、データを夫婦に見せる。夫婦はどちらも難しい顔をして、グラフを睨んでいた。
「つまり、効果があるってことですか?」
「これらのデータからは、おそらく、という言い方しかできません。そもそも親がそうだったからと言って、子どもが必ずアトピー性皮膚炎になるわけではありませんから、子どもがアトピー性皮膚炎でなかったとして、それが遺伝子操作による効果だと証明することは難しいわけです」
夫婦は今ひとつ理解できていないらしく、首をかしげているのか頷いているのか、はっきりしない反応を示した。
アトピー性皮膚炎の遺伝子操作は、比較的安価に受けることができる。遺伝的要因が未解明かつ不確実であるとはいえ、生活の質を著しく低下させる疾患であり、根本的治療が困難だと認められているからだ。そして、アトピー性皮膚炎で苦しんでいる人は多い。遺伝子操作の是非を決める基準は世論に大きく左右されるため、この場合は有利にはたらくのだ。
この事務所を訪れる夫婦は、どちらかというと富裕層にあたる夫婦が多い。その理由を一言でいうと、比較的安価に受けられる遺伝子操作の大半は、大手事務所が担うからだ。逆に言えばこの事務所は、費用が高額になり得る依頼を、その費用が払える夫婦から受ける傾向にある。今回のような依頼も少なからずあるが、その傾向において今回は例外と言ってよかった。
今回の夫婦は、山田さんの紹介で訪れた弟さんご夫婦だ。こちらとしては気まずいのだが、この夫婦は山田さんと事務所の間で起こったいざこざの詳細を知らないらしい。それはありがたいことなのだが、遺伝子操作の基礎的な部分も理解していなさそうなのは困る。おそらく聞きかじった程度の知識で、子どもがアトピーにならないならやってみたい、とでも考えたのだろう。
収入や貯蓄額が高ければ信頼できるわけでもないが、危うい発言がちらほら見られた。
「体外受精なしでってわけにはいかないんですか?」
「遺伝子操作というのは、卵子や精子に含まれる遺伝子を編集するもので、それを体外で行う必要があります。より確実に受精を行うために、体外受精を行うのが一般的です」
「子どもが生まれてからは、できないんですか?」
「癌の治療のように、ゲノム……、遺伝子を編集する技術はありますが、アトピー性皮膚炎となると現実的ではありません。生まれてからとなると、技術的にも倫理的にも難しくなるでしょう」
ここまで理解が浅いとなると、費用面も甘く見ている可能性が高かった。これまでの実例を参考に、費用の上下限を提示する。何せ比較的安価といっても、決して安くはないのだ。生涯にわたって対症療法を続けるための費用を念頭に置いたうえで、これで軽減されるなら確かに安いな、という額にすぎない。
しかしそちらに対する認識も、頼りないものだった。
「資金は親に援助してもらうんで、これくらいなら大丈夫です」
そんなことを臆面もなく言われては、苦笑するほかなかった。親からの積極的な支援じたいはこちらとしてもありがたいが、それに依存する姿勢はいただけない。
陽は少し黙り、夫婦のやりとりを静観していた。仲は悪くなさそうだが、どちらも思慮深さとは程遠いタイプに見える。こういったタイプは、その楽観さゆえにすべてが円満に解決する場合と、その無計画さゆえに問題が山積する場合がある。この事務所が関与する過程では問題なさそうなものだが、後者の可能性を危惧しておきながら知らぬ存ぜぬで通せるほど、我々は無責任ではない。
「ご両親は、子育てのほうにも協力的なのでしょうか」
「俺の両親は同居してますし、世話する気満々ですよ」
「この人も過保護に育ってるから、逆に甘やかされそうで心配なくらいです。金のことは気にするなとも言われてますけど、こちらとしては、老後の備えを残しておいてほしいんですよね」
手元の資料を確認する。勤務先から夫婦の年収を推定するが、実家暮らしでなければ、子どもを育てるのは厳しいのではなかろうか。この夫婦と山田さんの両方を援助している両親は、単に資金に困っていないのか、困っていても孫が欲しいのか。
「そういうことであれば、まず遺伝子のほうを検査して、費用を見積もってみましょう。その後に再度、詳細も含めてご相談させていただきます」
ここまでは、本契約が成立するかあやしい場合でも行うことが多い。しかしなけなしの経験則を基に、この夫婦との契約は成立すると予想した。
「多少正確さに欠けていても、イメージしやすい資料を探しておいてくれ。あと、普段使っている資料には注釈をつけておくといいな」
「わかりました」
こういった仕事は、素人である私のほうが向いている。陽や白井さんも、科学的知識の乏しい人に向けて説明するのは慣れているが、小難しい資料への耐性が全くない相手への説明は苦手らしい。
普段はそのまま提供する、関連資料のファイルを開く。あらためて見ると、注釈をつける以前に文章が長すぎるように感じた。条件つきの記述を省き、内容の正確性は一旦忘れて、冗長な文を可能な限り削いでいく。
「難しそうな依頼だけど、大丈夫そう?」
白井さんがコーヒーを片手に、ひょっこり顔を出す。
「まだなんとも。技術的なほうはわかりませんが、それほど難を感じるご夫婦でもないですよ」
「ふーん。山田さんとは全然違うタイプみたいだけど、弟さんも普通の人って感じだね」
「そうですね。山田さんと話していても感じますが、なんだかんだで育ちが良さそうというか」
「ね。詐欺とかひっかかりそう」
それが白井さん自身に向けた嫌味に思われて、同意しかねた。
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