第30話 Romantic gene (7)

「という話を聞きましたが」


 白井さんはけらけらと笑って、「そんなこともあったねえ」と言った。作り話だと思っていたわけでもないが、本当にあったのかと呆れてしまう。


「当時のあたしはお金がなかったからさ、この中のだれかと結婚したら楽かもって、値踏みしたりすることもあったよ」

「意外ですね。誘いには乗ったんですか?」

「食事したことは何度か。でも結果的に、この人たちは遊びたいだけなんだって気づいたの。結婚したいっていう人もいたけど、高級な所有物を買うのと大して変わらない感覚なんだろうなって。だから途中からは、こっちも金払いの良さだけで相手を見るようにしようと思ったの。もちろん、将来も含めてね。そしたら逆に、誰も目に入らなくなっちゃって」


 睨み合う男どもの間を素通りする白井さんは、その頃から始まったのだ。感慨深い気持ちになるが、違和感もあった。


「当時は結婚したいという気持ちが?」

「ちょっと違うかな。当時は大学生だからさ、あくせく働いて金稼ぐのだるいなって思うじゃない? 不労所得の典型例という意味で、玉の輿を羨んでただけだよ。ほんと、ナメてるよね。だけどやっぱり、他人に人生を委ねるとか、三歩下がって男を立てるとか、あたしには無理だって早々に気がついて」


 耳が痛いほどに共感でき、渋い顔で頷く。


「とてもわかります」

「だよね? でもあの時期があったおかげで、人を見る目も鍛えられたよ。ほんとうにご立派な大人は、大学生に手を出そうとなんかしないから」

「間違いないです」


 白井さんがふと遠くを見るような目になり、「あの頃はねえ」と頬杖をつく。


「父に迷惑かけられないし、妹にも気を遣わせたくないし、必死に勉強したんだよ。たぶんあの辺りから、実質的に結婚や出産のことは頭になかった。この職業を選んだのは、一種の言い訳みたいなものかな」

「言い訳?」

「うん。自分は子どもを産まないだろうけど、ホモ・サピエンスの存続には貢献しましたよっていう」


 遺伝子操作は、医療技術や社会福祉の進歩にともなって増加する、遺伝子疾患のリスクを低減するための科学的な手段のひとつだ。もしくは、生まれてくる子どもに込められた願いを叶えるための、ささやかな介入とも言える。いずれの場合も、子どもを授かる夫婦を助け、健全な子どもの育成に役立ち、最終的には人類の存続にも繋がり得る。そしていつかきっと、地球温暖化をも解決するはずだ。要するに白井さんの発言は、大袈裟な表現ではなかった。


 あらためて考えると、夢のような所業に思える。もしかすると単純に子孫を残すより、人類の存続に貢献できるかもしれない。とはいえそれを信じ込めるほど、人類の衰退が深刻だとは思えないが。


「今でも、結婚や出産のことは頭にないんですか?」

「……どうかな」


 白井さんが髪をかきあげ、頭を抱えるようにして俯く。


「父の気持ちが、今になってわかるんだよね。孫が欲しいっていうのは、たぶんあたし達を心配してるんだろうなって。今は妹の旦那がいるからいいけどさ、もし父が要介護になっても、妹に世話なんて任せられないなって、最近考えることがあって。若干飛躍するけど、それと同じだと思うの。配偶者も子どももいない状況で何かあったら、どうにもならないでしょ。だから結婚するなり、子どもを生むなりしておけって意味なのかなあと」


 またも耳が痛い話だった。ふと気になって、「妹さん、お子さんは」と、曖昧な訊き方をしてみる。


「産まないって言ってる。心臓が弱いから、出産も怖いしね。あの手この手を使えば可能だろうけど、医療に絶対はないし、リスクが断然高いのは間違いないから。でもまあ、本当は欲しいんじゃないかな」


 こればかりは、白井さんの本業である遺伝子操作を以ってしてもどうにもならないことだ。その悔しさが、白井さんの眼差しにあらわれていた。


「白井さんは、浜島さんと結婚しないんですか」


 触れずにはいられなかった。ずっと気になっていたことでもあり、ここぞとばかりに訊いてしまう。


「自信がないんだよね」


 白井さんは苦々しく笑い、手をひらひらさせる。


「あたしの母親、あたしが高校生の頃に出て行ったんだ。妹の治療の関係で専業主婦だったんだけど、本当は仕事を続けたかったんだって、いっつも言ってた。仕事できないのは妹のせい。妹がこうなったのはあたしのせい。貧乏なのは父のせい。なんでもかんでも人のせいにして、自分は可哀想って憚りなく言うの。たしかに妹の治療は大変だったかもしれないけど、妹が落ち着いてる時も少なくなかったんだよ? その時もろくに家事しないで、誰かに愚痴を言いに出かけてた。そうそう、その頃はあたしがずっと、家事やってたの」


 白井さんは、自分で言って吹き出しそうになっている。しかし私にとっては、さほど意外でもなかった。


「母親みたいになりたくなくて、当てつけみたいに丁寧にやってた。そのうち母が男作って出て行って、しばらくして妹の治療が一段落したくらいのタイミングで、あたしが大学に入った。そこで一人暮らししてみたら、それまで完璧にやってた家事が、何もできなくなってた」

「今でも、ずっとそうなんですか?」

「ご覧の通り。申し訳ないとは思ってるんだけど、なぜかこうなっちゃうの。でも、実家に帰るとできるんだよね。不思議なことに」


 自分がやらなければ。その自負の重みが、白井さんを動かしているのかもしれない。


「自分でもよくわからないけど、たぶんあたしには、母親みたいにはならないって強迫があるんだと思う。だから男には縋りたくないし、人のせいにするのも嫌だし、仕事を手放すのが怖いから、結婚も出産も怖い。結婚して子どもを産むために、仕事から離れられる自信がない。ハマがどうって問題じゃなくてね」


 仕事を辞めたくない。白井さんが事あるごとにそう言っていた理由が、やっとわかった気がした。


「でもね、あたしが子どもを産めば妹が喜ぶだろうなって、考えないではないの。あの子ならちゃんと面倒見てくれるだろうし、里子よりは育てがいあるよなあ、とか」


 白井さんは呟くように言い、「もしもの話ね」とごまかした。しかし、ちっともごまかせていなかった。


「白井さんは、自分のせいにしすぎですよ」


 敢えて非難する口調で言った。実は画期的な解決策に感心していたのだけれど、白井さんがそこまで考えを練ってしまっていることに、居心地の悪さを感じていた。端的に言えば、白井さんらしくなかった。


「私たちはミツバチじゃないんですよ。姉妹の子どもを育てることに意味がないわけではないですけど、それで妹さんが満足すると確信できるほど、策として合理的でも互恵的でもない気がします。だいたい、子どもを授かろうというのが自分以外の為だなんて、他人のせいにするのと大差ないですよ」


 白井さんは目が覚めたような顔で、「それもそうか」と頷く。


「それに、今のお相手は浜島さんですよ? 結婚も出産も、白井さんがその気になれば完璧にカバーしてくれますって。絶対に問題が起こらないとは言えなくても、その都度最善策か善後策を提示してくるのが浜島さんですよ。だから今のところは、なるようになるはずです」

「そっか、そうよね。あたしは自分がその気になるのを待てばいいんだ」


 私たちは頷き合い、申し訳程度にラテアートの施されたマグカップを掲げ、特に意味もなく乾杯した。

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