第23話 Invalid gene (10)
「あのご依頼、結局破談になったんですね」
「すんなりとね。良くも悪くも、奥さんのプライドが高かったってことよね」
依頼を取り下げたいという連絡は、あの面談の翌日に届いた。奥方がどう説明したのかはわからないが、今のところ、事務所の悪口が広まっている様子はない。大事になれば自分にとって不利益だと、ようやく思い至ったのかもしれない。
陽は苦笑いしてコーヒーを啜る。あの後監視カメラの映像と音声を確認したのだが、結局、陽は白井さんに非はなかったと判断した。よく言ってやったと、ほくそ笑んですらいた。
陽と白井さんは、同僚として理想の関係性を築いていると思う。ものすごく仲が良いようには見えないし、性格も決して似ていないのだが、お互いの実力を認めることはもちろん、根本的な信念が共通しているのだろう。意見が異なることはあっても、衝突するところを見たことがなかった。
相手が違う結論を出したとしても、その過程を辿れば納得できる。どちらも筋の通った合理的な人だから、相手にすり寄ることも、自分の意見に固執することもなく、相手の意見を客観的に判断できる。だからこそ信用できる。今回のような面倒なケースでこそ、その真価が発揮されるのだ。
「俺としても助かった」
「そう言ってもらえると助かります。ところで、古田さんから請求来てません?」
「それが、あっちは成立したらしい」
「えー、なんだあ。円満に解決しそうじゃないですか。よかったー」
白井さんは、心底ほっとした様子でクッキーをつまむ。
「浜島さんの出番、なかったですね」
「いいことだ」
「こちらの出費も抑えられるしね」
「お金の心配でしたか」
とにかく、穏便かつ平和的に解決してよかった。自分が掘り起こした面倒事だったのではないかと心配していたから、私も胸を撫で下ろす。
「でも感情的になったのは、さすがによくなかったよね。反省」
「感情的って感じでもなかったと思いますけど」
怒っているのはわかったが、口調や内容には冷静さが滲んでいた。だからこそ怖かったのだが、相手を罵っているわけでも、声を荒げているわけでもないのだし、感情的という表現は相応しくないように思う。
「そう? あたしさ、ああいうタイプが一番許せないんだよね。なんでもかんでも人のせいにするわりに、都合の良いことだけ自分のおかげで、恰好つけてるくせに被害者ぶってる、みたいな。ストーカーの件は実際に被害者だろうけど、自分の落ち度を落ち度として認められないのは、やっぱりみっともないよ」
白井さんは気安いようで、けっこう厳しい人だ。だからこそこの仕事が務まるのだろうし、私はかっこいいと思っている。
「ストーカーといえば、ユイちゃんは大丈夫? 何か面倒なことになってない? あたしは顔出せないからアレなんだけど」
「今のところは大丈夫です。結局、浜島さんの名前も出してないですよ」
「そっか。それならいいんだけど」
「どっちがですか?」
「今のところは大丈夫、のほう」
白井さんとけたけた笑っていると、陽が咳ばらいをした。わざとらしい。
「そういえば、古田さんってストーカーの件も知ってるんですよね?」
「そうね。あの時もいろいろ活躍してたんじゃないかな。陽さんは言わないけど」
古田氏からもらった名刺はしっかりとってある。それどころか、すでにスマホに登録してある。ストーカーの件について知っているのなら、連絡してみるのも良いかと考えてのことだ。
陽には怒られるかもしれないから、こっそり行ってみようと決めていた。なぜ陽があれほど真剣に、古田氏から私を遠ざけようとしたのかはわからない。本当に事務所が汚いのかもしれないが、それならむしろ、怖いもの見たさで行ってみたかったりもする。
「でも、古田さんには気をつけたほうがいいよ」
「え、何でですか」
白井さんまでそう言うとなると、本当にやめておくべきなのかもしれない。一瞬心が揺れるが、理由を聞かずに怖気づくほどではなかった。
「あの人、法律すれすれのこともけっこうやってるから。すれすれってのは、合法寄りの違法ってことね。素性もよくわかんないし」
「いいんですか、ここは信用商売なのに」
「法に触れないことだけが、信用とは限らないから」
白井さんがあっけらかんとして言う。それを聞いていた陽が、「妙なことを吹き込むな」と、呆れた様子で言う。
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