第22話 Invalid gene (9)
奥方だけを呼び出すのは、けっこう至難の業だ。しかし脅迫めいた問い合わせメールのおかげか、今回は比較的すんなりと呼び出すことができた。この場合も、念のため白井さんが面談を請け負うことになる。
「ここの監視カメラのせいじゃないんですか? 事務所がハッキングされてるとか」
女性は興奮していて、自分に落ち度があるとわかれば依頼を取り消されるとでも思っているのか、責任転嫁に全力を投じようとしていた。白井さんが事情を説明するが、今ひとつ会話がかみ合わない。白井さんは閉口しつつも、同感している風を装って諭し続ける。これは意図的なのだろうが、敬語が次第に崩れてきていた。
「でも、ストーカーの存在は事実ですよね? 何か脅迫をされているとか」
「脅迫というか……。たぶん、あの人は面白がってるだけだと思うんです。離婚させたいわけじゃなくて、私の生活を荒らすためにやってるんだと思います」
「浮気も嘘なんでしょ?」
「もちろんです。これ、昔の写真ですよ。それを加工して」
「陰湿だなぁ。付き合ってる時も、モラハラ男だったんじゃないですか?」
「そうなんですよ。ことあるごとに馬鹿にしてきて、因縁つけて」
この女性の言っていることが必ずしも正しいとは思わないが、相手が面倒な男であることは確かなようだ。
「犯人がネットに詳しいからって、うちのシステムにはハッキングできませんよ。私はあんまり詳しくないですけど、かなり詳しい人に任せているんです。今回もその人に確認してもらっていて、その気になればストーカーを捕まえることもできるらしいですよ。一度、相談されてみてはいかがでしょう。そのほうが、こちらとしても安心してご依頼をお受けできますから」
そうは言っても、探偵を雇う金額は馬鹿にならない。警察が絡まないようにしたところで、夫の協力がなければ難しいだろう。
「その調査費も、遺伝子操作の費用に含めていただけませんか」
「え?」
「請求書の記載を、どうにか変えていただけませんか」
それはさすがにまずいだろう。いくら依頼人に忖度した結果だとしても、請求書を偽装するだなんてご法度である。
「それはさすがに……。ご主人にご相談なさっては」
「そんなの、相手の思う壺でしょう。あの人はストーカーや脅迫のことが、私の夫に知られるのを望んでやってるんですよ。それに、私が馬鹿だと思われるじゃないですか。そもそも夫が遺伝子疾患なんてもってなければ、ここまで面倒なことにはならなかったかもしれないのに」
ダメだこれは。私は完全にあきらめて、天井を仰ぐ。
一体このクレーマーをどう帰らせるのかと白井さんを見て、はっとした。白井さんが気色ばむのが、目に見えてわかったのだ。「目の色が変わる」という表現の、本当の意味が分かった気がした。
「そう仰るのであれば、依頼をお受けしません」
「は?」
「請求書の改ざんはできません。我々の業務は信用商売です。そして言わずもがな、人の人生を左右し得る業務です。ですから我々には、依頼人に保護者としての責任能力があるか、倫理に反し、技術を冒涜する恐れがないか、要は依頼人が信用に値するか、判断する義務があります。先程のような発言をなさるのであれば、信用に値するとは認められません。ですから我々の信用のために、依頼をお受けしないのです。そもそもあなたがこの事務所を信用できないと仰るのであれば、他をあたってください」
女性は口をぱくぱくさせていた。白井さんは無表情で立ち上がり、「お引き取りください」と出口に向かう。
白井さんが怒っているところなんて、はじめて見た。その驚きとともに、自分の責務を思い出す。ぱくぱくしている女性に歩み寄り、事務的に説明した。
「事務所としてもこの件が解決しない以上、こちらの業務に支障をきたす恐れがあると判断しています。ですから状況が変わらないのであれば、一週間後の面談にて、こちらからご主人に事情をお話しし、ご依頼をお断りすることになります。ご主人とご相談されることをお勧めします」
女性は聞いているのかいないのか、私が言い終えたところで立ち上がり、あわただしく事務所を出て行った。その物音に驚いたのか、陽が顔を出す。
「ごめん陽さん、破談かも」
「いや、かまわない。何があったのかは後で聞くが、お前の判断を信じる」
「あーでも、面倒なことになったらどうしよう。あのタイプだし、ネガキャンされちゃうかな」
珍しいことに、白井さんが狼狽えていた。依頼人の前で感情的になるのは、白井さんにとってもはじめてなのかもしれない。
「大丈夫ですよ白井さん。私たちには、強い味方が」
そう言って、頭上にある監視カメラを指す。音声も動画もあるのだから、あの女性が根も葉もないことを吹聴したとしても、こちらは名誉棄損で訴えられる。もちろん風評被害はあるだろうが、事情を説明して理解できないような人間が依頼人になったところでろくなことはないので、結果的に問題ない。
「ああ、ハマね」
その勘違いに、陽が吹き出した。
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