第17話 Invalid gene (4)

「ということがあったので、お願いします。浜島さん」


 浜島さんの張りついた笑みが、一瞬強張ったように見えた。二時間近く酒を飲み続けているのに、顔色がちっとも変わっていないので面白くない。


「なぜ私が、ユイさんの彼氏のふりを?」

「傍から見たらあり得そうで、相手が知っている人物となれば、浜島さんしかいませんでした。そして職業柄、内密にしてもらえそうなので。白井さんからはオーケー貰いましたよ」

「なぜ白井さんが」

「え? まさか私が気づいていないと思ってたんですか?」

「お前、ばれてないと思ってたのか?」


 珍しく陽が茶々を入れる。そしてもっと珍しいことに、浜島さんが焦っている。顔色は変わっていないが、私にはわかる。だからきっと、陽にもわかっている。しかし当の白井さんはすっかり酔っていて、手を叩いて面白がっているだけだ。素面しらふでも、似たようなリアクションをしそうではあるけれど。


「ハマ、往生際わるーい」

「死ぬんですか私」

「気づいてなかったら、家が近いからって飲み会のたびに白井さんの世話させてませんよ。で、どうですか。田中さんと話すとき限定の設定ですから」


 浜島さんは顎を引いて、目を細める。嘘くさい困り顔。


「それ、陽さんは了承してるんですか」

「している」

「どういうつもりです? 危険だと思わないんですか?」


 空気がぴりつくが、陽は応じるつもりがなさそうだ。むしろ、敢えて目を逸らしているようにも見える。もしかして、笑ってるんじゃないか?


「あーあーやめてください。これは私の失態、というのは納得いきませんが、少なくとも陽さんのせいじゃないです。もうどうしようもないと踏んで、最善策を考えた結果です。だいたいあんな痩せた女の人、全然怖くなんかないですし危険でもないです。浜島さん見たことあるんですか、今の田中さん。四の五の言うなら苗字だけでいいんで貸してくださいよ。日本に浜島さんなんて、いくらでもいますよね?」

「え? もしかしてユイさん酔ってますか?」

「え? 私が酔ってたら問題あるんですか?」


 皆して二時間近く飲んでいるのだから、四人とも程度の差はあれ、酔っていてもおかしくない。浜島さんが口を曲げて苦笑し、両手を挙げる。


「わかりましたよ、ご自由にどうぞ。ですがくれぐれも、下手に刺激するようなことはしないでくださいね。陽さんも、知らん顔はさせませんよ。もしもが起こらないように、責任とってくださいね」

「わかってる」

「下手に刺激だなんて、ユイちゃんの思慮深さなめてんじゃないよー」


 白井さんが浜島さんの膝に転がり、そのまますやすやと寝息を立て始める。これで翌朝にはけろりとしているのだから、幸せな体質だと毎回思う。浜島さんを見てにやにやしてから、真顔に戻った。


「やっぱり酔った白井さんは、場を乱すのに効果的ですね」

「間違いない」

「ユイさん全然酔ってないじゃないですか。策士すぎて怖いですよ」


 舌を出したついでに、ストレートの梅酒をめる。私は極端にアルコールに強いから、滅多に酔わないのだ。しかし今、若干酔っている気がする。場の空気に酔っただけだろうか。


「で、さっきの話は本当なんですか」

「本当ですよ。私はハンカチ拾ってあげただけです」


***


 朝霧医院で診察を受けた後、祖母の風邪はあっさりと完治した。翌々日には、漢方薬が不味くて飲めないとぼやいていた。


 田中さんと会ったのは、祖母と墓参りに行っていた時だ。


「あの、この前、朝霧医院でお会いしましたよね?」


 背後から声をかけられたものだから、少なからず驚いた。よく覚えていたなと思ったが、祖母の車椅子が目立つのだろう。


「ああ、ハンカチの」

「そうです。あの時はありがとうございました」

「いえ、そんな」


 その時の田中さんはやけに明るくて、違和感を覚えた。後になって知ったことだが、彼女は精神科に通い始め、抗うつ薬で治療をしているらしい。つまり、薬が効いていたのだ。効いていたというより、処方が合っていなかったというレベルで。


 祖母は不思議そうな顔をしていたが、ふわふわとほほ笑んでいるだけだった。それは無理もない。祖母は、陽のストーカーの話を知らないのだから。


「おばあちゃん、ちょっと離れていい?」

「いーよ。おじいちゃんとお喋りしてるわ」


 祖母から離れ、墓地の入り口あたりで田中さんと向き合う。もっともその当時、私は彼女の苗字を知らなかった。


「ああ見えて、人見知りな人なので。知らない人がいると、祖父とお喋りできないんです」


 そんなことはまるでない。が、そういうことにしておく。


「あ、お邪魔しちゃった?」

「いえ。実は私、祖父と会ったことないんですよね。なので、ただの付き添いです」

「それならよかった。実はあのハンカチ、とても大切にしていたもので、拾ってくれたお礼がしたいんです。迷惑でなければ」


 そう言って彼女が差し出したのは、可愛らしい花柄のハンカチだった。当然新品で、透明な袋にラッピングされている。


 首をひねりたくなるが、ハイパーセンシティブな相手への配慮を忘れてはならない。


 「趣味じゃない」。それを口にしないくらいの品性は、私にだってある。趣味じゃないとしても、ハンカチの柄なんて大して気にしていない。趣味じゃないどころのアウトオブ眼中。それもひっくるめて、顔には出さない。


「え、拾っただけなのにそんな」

「いいんです。趣味みたいなものだから、誰かに受け取ってもらえたほうが嬉しいですし」


 ハンカチが趣味ってなんだ。染物なのかと目を凝らすが、よくわからなかった。


「そういうことなら、いただきます」

「ええ。あ、私、田中って言います。あのアパートに住んでて」


 田中さんが指さしたのは、通りを挟んで墓地の南東にある、四階建てのアパートだった。墓地のある通りは駅に通じていて、私も毎日使っている。


「じゃあ、お墓参りしたらまた会うかもしれないですね」

「ええ、また会ったら、ご挨拶しますね」


 そんな感じで別れた。私は名乗っていないけれど、たぶん知ってるんだろうなと遠くを見つめる。

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