第16話 Invalid gene (3)

「診察室までついていこうか?」

「いーわよ。待合室で待ってて」


 祖母がそう言うならと、待合室のソファに座りなおす。看護師が来て、祖母の車椅子を押して行った。


 私は祖母の付き添いで、朝霧病院に来ていた。昨晩から祖母が少し風邪っぽいと言っていたから、念のため診察を受けることにしたのだ。


 祖母は祖父が肺炎で亡くなってから、ちょっとしたことでも病院へ行くようになった。無論、それは良いことだ。お年寄りにとってはちょっとした不調が命取りだし、私自身、祖母には元気で長生きしてほしいと思っている。


 以前、依頼人の姑として訪れた女性は元気だろうかと、ふと考える。末期癌だから、元気なはずがないのだけれど。


 そんなことを考えながらぼんやりしていると、入り口から女性が入ってきた。小柄で華奢な夫人だが、何となく挙動がおかしい。じろじろ見ていることがわからないよう、ごまかしながら様子を窺う。


 受付の様子を見る限り、通院している患者のようだった。頻度もそれなりに多いようで、保険証を出した様子がない。あっさりと受付を終え、前のソファに腰かける。


 身なりは良く見えるが、シャツには皺が寄っている。まとめている髪も微妙に乱れていて、まとめきれなかった髪が落ちていた。後ろから見ると、華奢というより痩せすぎているのだとわかる。


 鬱病。直感的にそう思った。鬱病患者に詳しいわけではないが、典型的な症状くらいは知っている。そもそも鬱状態に拍車をかけたようなものだから、大抵の人間には想像がつくだろう。他の病気や体調不良でも鬱状態になるかもしれないが、そうではないような気がした。


 財布を鞄から出す時に落としたのか、受付の前にハンカチが落ちている。女性は気づく様子もなさそうなので、立ち上がって拾いに行った。


「落ちてましたよ」


 女性が「あ」と声を漏らし、おどおどと頭を下げて受け取る。


「すみません」

「いえ」


 ちょうどその直後、診察室の扉が開いた。祖母の車椅子を、かずが押している。


「あ、こんにちは」

「こんにちはー。今日は大学もバイトもないんだ」

「はい。おばあちゃん、風邪ですか」

「風邪ってのも、釈然としない診断だけどね。咳もひどくないし、安静にしてればよっぽど大丈夫。いちおう咳止めの漢方薬を出しておくけど、咳が続くようだったらまた来てもらって」


 和の視線が、ちらりと女性のほうへ向く。女性は気づいていない様子だったが、和も声をかけなかった。


「じゃ、お大事に」

「和くんありがとうねー」


 祖母に笑顔で手を振って、和は診察室へと引っ込んだ。


「お薬、すぐに出しますね」

「あ、お願いします」


 あってないような待ち時間で会計を済ませ、病院を出る。普段はもう少し時間がかかるから、診察が終わった後、祖母と和が診察室でお喋りしていたのかもしれない。女性のことが気になったが、風邪気味の祖母を寝かせることが優先だった。


「空いててよかったね」

「そうだね。和さんとお喋りしてた?」

「ちょっとだけよ。せっかく来たからね」


 鼻声ではあるが、元気そうで何よりだ。昨晩の咳もすっかり止まっているが、夜に限って出る咳は長引く。祖母の風邪が完治することと、自分が感染うつした風邪でないことを、密かに祈る。


「生姜か大根、あったかな」

「生姜チューブしかないかもね。あとで買ってくるから寝てなよ」


 祖母を乗せた車椅子は重いが、散歩日和の帰路では気にならなかった。


***


 生姜の皮を剥くべきか。しばらく考えてから、諦めてネットに頼ることにした。手を拭いてスマホを取り出すと、和から連絡が来ていた。


「さっきはお疲れ様。この前の話で、ちょっと付け足しておきたいことがあって」


 そこで待合室にいた女性のことを思い出し、生姜の皮について検索してから、返事を打つ。


「待合室にいた女性が、例のひとですか?」


 送信し、ブラウザに戻る。生姜の皮は剥かなくてもよさそうだ。夕飯は生姜焼きにすると決めていたので、あらかじめ調味料を用意しておく。


「さすが、まさにそう。いちおう知っておいてもらったほうがいいかなと思って。用件はそれだけなんだけど」

「何となく察しました。また何かあればお願いします」


 さすがって何だろうなと小首を傾げつつ、生姜をすりおろす。一個すりおろし終えたところで、玄関扉の開く音が聞こえた。帰宅時間と足音からして母だろう。居間に現れたのも、予想通り母だった。


「ただいまー。おばあちゃんどうだった?」

「風邪だろうって。安静にしてれば大丈夫とも」

「そっか。それで生姜ね」

「と、ついでの生姜焼き」


 そんな会話をしている途中で、ポケットのスマホが鳴る。手が生姜まみれなので、無視を決め込んだ。


「今日ね、新人の同僚と話してたんだけど」

「新人の同僚」

「去年大学生の。銀行口座売った先輩の話しててさ、大変なことになってたからユイも気を付けてね」

「うん、それはさすがにまずいとわかるけど。反社に利用されてたりとか?」

「たぶんそう。だから別人が使ってたんだけど、本人がカードとか印鑑を紛失したってことにして、再発行したらしいんだよね。そしたら、結構な金額が入ってたらしくて」


 そんなことができるのかと驚いたが、本人が訴えたら可能なのかもしれない。


「想像の斜め上を行ってるんだけど。それで?」

「結構な金額が入ってるってことは、反社のマネーロンダリングとかに使われてたってことでしょ。これはまずいってなって、暴力団に入ったんだって」


 さらに想像を超えてきた。というか、自ら大変なことにしているような気がする。飛んで火に入る夏の虫。


「毒を毒で制したと。その暴力団が大元だったって落ち?」

「そこまでは聞いてない。暴力団に入って以降のことは、誰も知らないんだって。もしもそうだとしたら、どうなるんだろうねー」


 そのもしもだから音信不通なのではないかと疑いたくもなる。いっそ警察に摘発されたほうが、軽い罰で済みそうなものだ。


「そっち系への入り口は、案外身近にありふれてるものだよね」

「その話に関しては、自業自得と言っていいと思う」


 ようやく生姜をすりおろし終えた私は、手を洗ってスマホを取り出す。和からの返信だ。


「ユイちゃんのこと気にしてる節があったから、もし何かあったらすぐに連絡して」


 どうしてこうなったのか。経緯を回顧し、人のことを言えないと気づく。

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