第15話 Invalid gene (2)

「先天性白内障」

「はい。子どもの頃に治療しているので、今は特に問題ないですが。家族もいろいろと検査を受けていて、それに関連する資料です」


 陽はぱらぱらと資料をめくり、ぴくりと眉を動かす。


「常染色体優性遺伝のものですか。となると、ご両親のいずれかも白内障ですか?」

「はい、母がそうなんです。だから、僕が生まれた時もすぐにわかったみたいですね。詳しいこともわかってますし、治療の余地もありますけど、やっぱり小さい頃に手術なんて、大変ですから」


 今回の依頼人は、比較的若い夫婦だった。調べてみると、割合としては珍しい遺伝性疾患のようだが、研究例が多いおかげで遺伝子操作の前例も豊富だ。おまけに依頼人が資料を提供してくれるという、とてもありがたい案件である。


「一度確認させていただきます。こちらの資料、データとしてお預かりしてもよろしいですか」

「もちろん」


 陽から資料を受け取り、応接室を出る。スキャンしてデータ化するのは骨だが、デジタルデータで送ってくれというわけにもいかない。そもそもこの資料は古いものだろうから、原本が紙媒体なのだろう。


 データを確認しつつ、資料に含まれる解説に目を通す。治療する適期が一歳未満。白内障だから目視でわかるのかもしれないが、発覚が遅れても不思議ではなさそうだ。乳児の頃はもとから視力が低いものだし、本人にとっては見えないのが当たり前なのだから。


 重篤、あるいは治療不可ではないとしても、障がいはありふれている。減っているように見えて、おそらく昔よりも増えているのだろう。というのは、大昔は死活問題だった障がいが、今では大した障りにならないことのほうが多いからだ。選択圧が弱まれば、理論上、遺伝性の障がいが増える。それを多少減らすのがこの仕事なのだと、いつか陽が口にしていた。


 この依頼はその好例だ。どの事務所だって受けるだろう。だからこそ、なぜこの事務所に来たのかが少しだけ気になる。陽や白井さんには失礼だけれど。


***


「顧客が大手を避ける心理はいくつかある。最もよくあるのは、大手では通らないセンシティブな依頼。次点がスピードの遅さ。昨今多いのは個人情報管理に対する不信感。これに関しては、どちらかというと隠蔽体質への危惧だね。大穴は個人情報照会と審査の回避」

「個人情報照会はどこでもやりますよね?」

「それはもちろん。と言いたいところだけど、不正がしやすいのは小さめの事務所でしょ。残念ながらこの業界も、フロント企業化してる事務所がないとは言えないし」


 暴力団が関与しているとなると、条例云々を差し置いてもかなり問題がありそうなものだ。しかし買収されてしまえば、拒みようがない。


「まあ、それだけじゃないんだけどね。契約時にばれなかったとしても、大手は顧客数が多いから、もしもの時に警察が出入りしやすいじゃない? ゲノム情報なんて捜査にうってつけだし、実際警察に協力することも少なくない。警察が閲覧可能なデータベースに載せることはどこもやってるけど、警察が干渉して不正が発覚するリスクは大手が断然多い。そういう理由」

「つまり大手だと不正がしにくいうえに、発覚のリスクも高いと」

「まあそういうこと。警察だって、できることなら一度の交渉で多めの情報を得たいでしょ。確率的にも高いから、小さめの事務所は後回し。そういうわけで、この手の事情も可能性としてはある」


 可能性としてはあるが、よくあるとも言い難いから大穴なのだろう。暴力団関係者なんて見てくれでわかりそうなものだが、見てくれがそうだからと余計な勘繰りを入れるのは、業務上よろしくない。


 今回の件に関しては、スピードの重視か誰かからの紹介だと考えるのが無難だろう。身元が後ろ暗いだなんて考えるのは、それこそ妙な勘繰りか。


「何? 気になることでもあったわけ」

「いえ。とても無難な案件だったので、大手でもよかっただろうにと思っただけです。というか、知名度も病院との伝手もある大手に行くのが自然じゃないかと」

「まあ、最近は珍しくもないけどね。個人情報を漏らしちゃった大手事務所のおかげで、小さい事務所にもオーソドックスな依頼が流れてる。あの報道のおかげで、業界じたいの認知度も上がったことだし。それを差し引いても気になること?」


 私は首をかしげる。「感覚的なものですけど」と前置きを入れておく。


「女性のほうが、監視カメラを気にしてた気がするんです」

「カメラ? 最初に録画する了承を得るから、気にする人は少なくないでしょ」

「最初はそうかもしれません。でも、大抵は会話に集中して気にしなくなるんですよ。傍から見てるとわかるんです」

「へえ。こちらの話が小難しいからかな」

「目を通すものも多いですしね。だけど、あの女性は頻繁にカメラを気にしていて、といっても見てるわけじゃなくて、何気なく顔をそむけるような素振りがあったんです。身体の向きが不自然だったのと、頻繁に髪を触るのとで、気になってたんですけど」


 面談中も、相槌が曖昧だった。夫に口出しできないからではなく、会話に集中できなかったからではないかと感じた。そもそも遺伝性疾患の治療なのだから、夫婦で意見が分かれることも少ないだろうし、こちらから尋ねるのも確認事項ばかりだ。


「陽さんには?」

「いちおう伝えてあります。陽さんも変だとは思ったみたいで」

「そう。大穴でなきゃいいけど」


 陽もその可能性を疑っているのかもしれない。面談後、外出したきり帰って来ていなかった。

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