第13話 Obsessive gene (6)
「主人が癌だと気づいた時も、すでに末期でした」
女性は淡々と述べた。心なしか、以前より痩せて見える。
「はじめは治療を受けていたんですが、それがむしろ辛そうで、治療をやめて自宅で一緒に過ごすことにしたんです。日に日に弱っていく主人を見て、ああ、この人に会えるのは今日が最後かもしれないと思うと、毎日眠れませんでした。だけどその時間は、長くはなかったけれど、幸せな時間でした」
「……だから、治療を受けないのですか」
白井さんの問いに、女性が弱々しくうなずく。今回も女性ひとりとの面談ということで、白井さんが担当していた。陽が担当したとしても全く問題ないだろうが、例外は極力ないほうが良い。
「少しでも、息子たちと一緒に過ごしたいんです。私はもう年だし、ころっと死ぬほうが後腐れないでしょう? だけどこれから生まれてくる孫のことは、どうしても気になって。祖父母が全員癌だなんて、心配せずにはいられないじゃないですか」
「わかります。でも、息子さんご夫婦は遺伝子操作に反対されています。説得するためにも、癌のことを打ち明けるべきではないですか。息子さんたちが気づくのは時間の問題ですし、ご依頼を受けることになれば、息子さんも遺伝子検査を行うようなものです」
女性は首を横に振る。その選択肢も、さんざん考えた後なのだろう。
「息子にまた、死までのカウントダウンをさせたくないんです。主人が亡くなるまでの苦しみを、再び味わうことになりますから。私も、できるだけ普通の生活がしたいですし。もちろん息子も検査を受けるべきだとは思いますが、それは私が死んでからでも遅くないでしょ?」
覚悟はできている。そんな風に見えた。意思は固く、どんな説得も無意味に思える。それにこちらとしても、説得する必要はない。
「わかりました。私どもとしても、ご依頼を受けるかはともかくとして、遺伝子検査を受けて頂くべきと考えています。しかしお嫁さんだけでなく、息子さんにも受けて頂くべきでしょう。お父様が癌を発症しているのであれば、息子さんに癌原遺伝子が見つかっても不自然ではありませんし、お母様のご病気については内密にしますので」
女性は少し迷いを見せたが、案外あっさりと了承した。やはり一番の心配は、息子に末期癌がばれることだったのだろう。こちらがそれを配慮するというのであれば、大きな問題はないらしい。仮に遺伝子検査の結果、息子に遺伝子異常が見つかったとして、母親の癌がばれることとは別問題な気もするが、些末なきっかけすら用心したくなるほど、この女性は不安なのかもしれない。
「それでもやっぱり、息子たちには嫌な思いをさせるかもしれませんね。もし陽性だったら、ずっと癌のことを恐れなければならなくなる。それは、酷なことかもしれません」
女性がしんみりと言う。本当に、息子夫婦のことを心配しているのだろう。おそらくこの女性は、遺伝子操作をするか否かに関わらず、孫の顔を見ることはできない。妊娠するところまでは一緒に過ごせるかもしれないが、その先を見ることは叶わない。今から癌治療を受けたとしても、そこまでの延命は難しそうだ。
祖父のことが頭をよぎる。一度も会ったことの無い、聡明だったらしい祖父は、病床で孫の顔を見たかったと後悔しただろうか。
「そんなことは、ないです」
思わず、口をはさんだ。女性の目がこちらを向く。
「陽性だったとしても、遺伝子によってはどの器官に癌が生じるか予測できます。癌になる可能性が高いとわかれば、より一層予防に努めることができます。それに遺伝子操作を行えば、お孫さんはその恐怖から、完全にとはいきませんが解放されるはずです。曖昧な恐怖より、対処できる恐怖のほうが幾分ましです。知ることを恐れるべきではないです」
ずいぶんと生意気なことを言ってしまったと思ったが、女性の表情はほころんだ。
「若いのに、しっかりしてるのねえ。そうよね、どちらにしても、息子たちは癌のことを考えて生きていかなくてはならないのだから、白黒はっきりさせたほうがいいのかもしれない」
遺伝子検査で陰性だったところで、癌にならないとは限らない。同様に、遺伝子操作を施したところで、生まれてきた子どもが癌になる可能性もある。人は、誰だって癌になり得る。
だとしても、付き纏う恐怖に抗おうとした祖母の気持ちを、子どもに遺す手段としては悪くないはずだ。
「もう一度、息子夫婦と話してみます」
女性は晴れ晴れとした表情で、事務所を去った。
***
「結局、ふたりとも陰性だった」
陽は釈然としない表情だった。白井さんも驚いた様子で、書面に食いつく。
「本当ですか? そんなことあります?」
「事実としてあったんだから、あるんだろう」
「それじゃあ、本件は無しですか」
「変えようがないからな。未知の遺伝子異常が存在する可能性はあるが、考えたところで仕方がない」
どことなく不満げな表情ではあるが、がっかりしている様子はなかった。だいいち、結果は喜ぶべきものだ。
「よかったですね」
「それはそうね。これで少しは、息子さんたちも安心するでしょ。ユイちゃんの活躍のおかげだよー」
「活躍ってほどでは」
私は、姑の隠し事に気づいただけだ。それがどう影響して、この結果につながっているのかわからない。実際、誰かが救われるわけでもない。なにより、契約成立に至ったわけでもない。
「しかし、ユイの洞察力には目を見張るものがある」
「ほんとにそう。この手の仕事に向いてるよ」
「お褒め頂き光栄です」
褒めてもらえるのはうれしいが、白井さんが散らかしたものを片づけている私の苦労も、おおっぴらに労ってほしいものだ。
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