第12話 Obsessive gene (5)

 和は、時間ぴったりに現れた。白井さんと二人で手を振る。


「お待たせしました」

「いえ、ちょっと前に来たばかりです。お忙しいところにすみません」

「今日は休診日ですから。ええと、何から話そうか」

「とりあえず、私たちのほうから。和さん最近、患者さんに事務所の紹介とかしなかった? それで困ってるとかじゃないんだけど」


 陽はきょとんとして、「あ」と声を漏らした。


「陽に言うの忘れてた。そういえば紹介したよ。そうしたのには、浅からぬ訳があるんだけど……。これ、話していいのかな」

「もしかしてそれは、癌宣告を受けた女性ですか?」


 白井さんが食い気味に訊くので、和は目を丸くする。


「そうです。ってことは、本当に行ったんだ。それなら事情は知ってるよね。息子さんもそのお嫁さんも、両親がふたりとも癌になった経験があるって。でも、遺伝子検査では陰性だとか」

「珍しいケースですよね。ちなみにその女性が癌宣告を受けたのも、最近の話ですか?」

「はい。うちで紹介状を出して、精密検査に行ってもらったんです。癌が発覚したときに、陽の事務所を紹介しました。もとは毎年検診を受けていた方なんですが、ここ数年は受けていなかったようで。その間に進行したのか、発覚したときには治療が難しい状態でした。総合病院に移るよう勧めはしましたが、癌治療する気はないと。そうは言っても放っておけないので、うちには通院してもらっていますが」


 たしかにその状況では、検査結果を疑いたくもなる。女性がここ数年、癌検診を受けていなかった理由も気になるが、単純に退職したからかもしれない。


「宣告された時も、察しはついていたみたいです。何の因果でしょうねと、笑っておられて。こう言っては失礼なんですが、何だか不憫で……。陽の事務所をこっそり教えたんです」

「そうでしたか。その女性は、息子さんにも癌のことは話していないみたいなんです。今も通院されているんですか?」

「はい。痛み止めしか処方できませんが、本人のご希望ですので。息子さん、やっぱりご存知ないんですね」


 和は悔しそうな表情だった。治療しても延命にしかならないとはいえ、何もできないことが医者として辛いのだろう。


「それで、息子さんご夫婦は遺伝子編集を?」

「いえ、検査で陰性だったこともあり、遺伝子編集を受けるほどではないと。さらに詳細に検査する余地はあるでしょうけど、それで精度が上がるわけではないですし。そもそも手遅れになる前に治療すれば治る病気ですから、こちらとしてもお薦めはしません。とはいえお姑さんは納得しないでしょうから、どう折り合いをつけるべきかと」

「そうですか……。俺が言うのも何ですけど、結果にかかわらず、改めて遺伝子検査を受けたほうが安心ではないかと思います。実際、今でも早期発見が難しい癌はあるわけですし。難しい案件だとは思いますが、どうかお願いします」


 和が頭を下げる。白井さんも神妙な表情で、「陽さんにもお伝えします」と答えた。ひとまず話がまとまったところで、重苦しい空気を払拭すべく明るい声を出す。


「じゃあ、この話はお終いで。次は和さんの話ですね」

「あ、そうだね。えっと、白井さんにもお伝えしておくべきかと思いまして」


 和が例のストーカーに関する話を、白井さんに説明する。白井さんは驚きつつも、興味津々な様子で話を聞いていた。


「ついにご実家にも現れましたか。小柄で華奢なご婦人ですよね?」

「そうです。結婚指輪はしてなかったので、離婚されたんでしょうか」


 陽へのストーカーが警察沙汰となったのだから、さすがに離婚しているだろう。事務所および陽の自宅周辺は出入り禁止で、陽の姿すら見られないのだから、鬱になるのも納得だ。


「でも、通院をやめさせるわけにもいきませんし。今のところ睡眠以外は生活に支障がないようですし、鬱のほうも心配で。精神科を紹介するべきか迷いもしたんですが、自覚させるとかえって悪化しそうで控えてたんですよね。俺は特に、困ったこともないし」

「そうですか。でも、ストーカー行為の延長であることに変わりはありませんから、どこかで止めさせないと。何かの拍子に、再燃する可能性もありますし」


 もしそうなったら、陽はたまらないだろう。しかし、現時点で成す術はない。


「そうですよねえ。でもうちに来るのを止めさせたところで、何かの解決になるとは思えなくて。一度、それとなく精神科医に行くよう、勧めてみるのが良いかもしれませんね。考えておきます」


***


「和さんって、結婚してないんだね。どこをとってももてそうなのに」

「そうですね。おばさんも、ふたりにそういう話が全くないって心配してましたけど、その気になれば困らないんじゃないですか? ふたりとも」

「それはそうね。でもまあ、仕事に一途な人って、結婚とか子どもとか、眼中にないもんね」

「白井さん、人のこと言えるんですか?」

「はは、言えませんね。でも、男と女じゃまた違うから」


 いつだったか、事務所に来る夫婦のことを客観的に見れるのは、家庭がないからだと白井さんが言った。結婚や出産を考え始めた瞬間、技術者としての考えに自分の思想が混じり始めるのだと。白井さんが二年ほど勤めた大手では、かなり大っぴらに女性の雇用が推進されていたが、結婚や出産を経験した女性は、ほとんど必ず顧客から遠のいていたらしい。一方男性はそうでもなかったというのが、興味深いところだ。


「女はさ、往々にして粘着質なんだよ。ちょっとしたことに意味を見出そうするし、それに縋りたくなる。まったく別のことを、切り離して考えられなくなる。だから病むと怖いのは、女のほうなんだよね」

「どういう意味ですか?」

「心の安寧を保ちましょうってことだよ」


 白井さんは、寂しげに笑った。

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