第9話 Obsessive gene (2)
「では検査結果によらず、お嫁さんには癌に関連する遺伝的要因があるとお考えですか」
「そうです。検査ではでませんでしたけど、あれって一部でしょう? 検査項目に無い遺伝子だって、遺伝的な癌の原因になるんですよね」
「遺伝的要因がなくとも癌になることはありますし、親子が癌になったところで遺伝とは限りませんが」
陽は明らかに辟易していた。うるさく喚く中年女性の横では、若い男女が縮こまっている。こちらに目配せをして、すみません、と首をすくめる。
「でも、お祖父さんもお母さんも癌で早くに亡くなってるんでしょ? それに、お父さんも最近」
「食道癌が見つかったんです。早期だったので、大事にならずに済みましたけど。父はお酒を飲みすぎるきらいがあって、それもあると思います。お酒にはもともと強いみたいだし、それで迷惑することはなかったから、あまり気にしてこなかったんですけど」
お嫁さんは申し訳なさそうにしつつも、しっかりと抗議をしていた。旦那さんの方は、「お酒を飲む量って、比較できる大人がいないとわからないよね」なんて、話を逸らす努力をしている。
「その程度であれば、さほど珍しいとも思いませんが」
「そうですか? でも、ご両親とも癌となると心配になるじゃない、ねえ?」
「心配になったから、遺伝子検査したんだろ。その結果が陰性だったんだから、気にしたってしょうがないじゃないか」
陽がうんざりした顔で、額に手を当てる。彼は、曖昧な依頼を最も嫌っているのだ。要望が具体的である必要はないが、あまりにも漠然としているとか、人に言われて相談に来たとか、そういう切実さに欠ける依頼は大抵どこかで頓挫し、面談が徒労に終わるからだ。そういった理由で契約が成立せずとも、面談の時点で一定の料金が発生するため、下手に蔑(ないがし)ろにできないところも厄介だ。
「本業ではありませんが、うちでも遺伝子検査は可能です。一般的な遺伝子検査に含まれないものについても照合できますが、そういった遺伝子というのは、比較的リスクの低いものや非常に稀なものが大半です。当然ながら、未解明な責任遺伝子も存在します。今は癌治療技術が発達していますから、早期に発見し治療するほうが、安価で確実でしょう」
「それはそうだけど、早期発見できないことだってあるじゃない」
堂々巡りだ。というか、この女性が聞く耳もたずなだけか。
「困らせてるじゃないか。今日のところは帰ろう。ほんとに、すみませんでした」
旦那さんが無理やり話を切り上げ、鞄を抱えて立ち上がる。お嫁さんがそれに続き、女性もしぶしぶ立ち上がる。
今回の案件も面倒そうだ。面談で終わりそうではあるが。
***
「母が聞かないんです。ここに相談してみろって」
男性は、ほとほと困り果てた様子だった。女性も渋い表情で、男性を横目に見ている。夫婦は思いのほか若く、二十代半ばくらいに見える。この事務所を訪れる夫婦としてはかなり若いので、まじまじと見てしまう。
「遺伝子検査もしたんですけど、結局陰性だったんです。それを見せても納得してくれなくて」
「それでおふたりとしては、遺伝子操作を行う必要性を感じていないと?」
陽はあくまでも、事務的な口調で尋ねる。依頼と切り離された相談であっても、手を抜かないのが彼のポリシーだ。しかし、親身ではない。
「はい。癌と言っても、よほど進行してなければ今の時代、治療でどうにかなるじゃないですか。そもそも遺伝的なものかもわからないのに、遺伝子操作だなんて。俺たち、そんな金もないですし」
「子どもは、自然に授かるつもりでいたんです。お互い仕事が安定して、ようやく子どもを育てられるくらいのお金が貯まったくらいで。私は仕事を続けたいし、キャリア的には若いうちに産みたいという気持ちがあったので、そろそろ子どもが欲しいという気持ちはあったし、お義母さんともそう話していたんですけど」
新しい形の嫁いびりだろうか。参考までにメモをとる。陽が怪訝そうな顔をして黙っているので、ついでに質問してみる。
「どうして、お母様はここを?」
「母は体調が悪い時、よく朝霧(あさぎり)医院に行くので、そこで聞いたのかもしれません。遺伝子操作って、まだニッチじゃないですか。総合病院か大きい産婦人科で紹介されるとか、自分で調べるとかしない限り、こういう事務所の存在もそうですけど、どこが良いかなんて母は知らないはずなので」
朝霧医院とは、陽の実家だ。この男性はそのことを、陽の苗字から察したのだろう。親が経営しているとはいえ、この事務所を大々的に宣伝しているわけではないし、そもそも朝霧医院は産婦人科ではないので、推薦するようなこともないはずだ。だが、何かの拍子で知ることはあるかもしれない。
「お母様は、それほど癌原遺伝子の有無にこだわられているんですか? 遺伝子操作なしに子どもを授かるべきではない、とか」
「そこまでは言いません。でも、癌になったら苦労するし、未然に防げるなら治療した方が良いってくどいんです。母はやたら、癌を気にしているんですよ。検診も絶対に欠かしませんでしたし。実は俺が高校のころに、父が癌で死んでて。もともと共働きだったし、ありがたいことに貯金があって金銭的にはどうにかなったんですけど、やっぱり精神的にきつかったんだと思います」
夫婦のどちらも、片親を癌で亡くしているのだ。男性のほうも、癌に関わる遺伝的因子をもっているかもしれないわけか。
「旦那様は、遺伝子検査を受けたことが?」
「あります。まあそれも、陰性だったんですけどね。父が死んでしばらくしてから、母に言われて。あ、たぶんですけど、俺のほうは身内で癌になってるのが父だけだから、そこまで疑ってないんだと思います」
「私のほうは、たしかにちょっと多いんですよね。母はともかく、父や祖父は生活習慣のほうに問題がありそうだとは思いますが」
姑の言動も、あながち理不尽ではなさそうだ。癌に対する強迫観念のようなものがあるだけで、実のところ、ただ心配しているだけなのかもしれない。
「それで後日、母が一緒に来ることになるんですけど、事前にお話ししておきたくて。迷惑は承知の上なんですが、何卒お許しください」
「それはご丁寧に。お気遣い、感謝します」
陽は苦々しい顔で、頭を下げた。
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