第3話 Cosmetic gene (3)

 私の仕事に、専門的知識は必要ない。陽の仕事と、事務所の業務内容じたいは特殊だが、私が任されているのは主にどの企業にも、つまり個人事務所にも存在し、外注しなければ必要不可欠な、事務と雑用だ。


 事務所の経営者である陽とは、父親どうしが友人という程度の知人だった。家族ぐるみの付き合いじたいは長いので、歳が近ければもう少し仲良くなっていたかもしれないが、そうではなかったのでそうならなかった。よくある話だろうが、陽の家族付き合いが悪くなったころから、ぱったり会わなくなった。ちなみに、結構前のことだ。


 そんな状況が続いていたので、陽のことは、たまに話題に出る過去の人物としか思っていなかった。しかし私が大学に入り、理系を貫いて生物学を学び始めた頃、双方の父親を伝手にしてアルバイトの誘いが来た。遺伝子を専門とするつもりはなかったし、そうしたところで分野は異なるのだが、それでいいから手伝ってほしいとのことだった。


 断る理由もなく、そして給料も悪くなく、他と比較する以前に一から仕事を探すのが面倒だったので、私としてはなんとも都合が良かった。ふたたび父親伝手に承諾の意を表明し、出勤初日に陽と再会した。それなりに緊張して事務所の扉を開けたのだが、雑然とした事務所の様子に、まずは戸惑った。サイトのデザインと顧客と面談する個室の写真から、スタイリッシュな事務所を想像していたのでがっかりもした。


 久しぶりに会った陽はというと、風変わりな年上の少年が、風変わりな大人の男性になったという、特筆に値しない印象しか受けなかった。要するに彼は大して変わっていなかったので、何の感慨もなかったわけだ。当然、恋心が芽生えるとかいう、ありがちなおめでたい展開もなかった。


 私が抜擢された理由は、全く面白くない。彼曰く、「この手の話にやたら興味をもっていて、しかも専門知識がありすぎると、仕事に介入されそうで嫌だった。かと言って全く予備知識がないというのも、面倒が多いので避けたい。そういう微妙な条件で求人するのは難しいので、ちょうどよかった」とのことだ。彼らしいが、面白くはない。


 彼の言い分はもっともだ。それに対する文句もない。そして私は、とりわけ技術面に関して、彼の仕事に対する興味がない。実際仕事をしてみても、知識が無いために困ったことはなく、特別新しく覚えたことを敢えて挙げるならば、コーヒーの淹れ方くらいだ。あとは、少し頭を使えばそれなりにこなせる仕事のみ。なるほど確かに、私は適任だったわけだ。そう感じるようになってから、なぜだか私は急に物足りなさを感じ、仕事における楽しみと、やりがいなるものを探し始めた。


 散らばった書類をまとめ、必要なものをファイルに挟む。作業をする上では紙媒体のほうが良いとのことで、この職場では紙が散乱するのだ。


「いっつも散らかしてごめんね、ユイちゃん」


 白井さんが、ソファに寝転がったまま声をかける。反射的に振り向いて目についたサイドテーブルには、空のマグカップが二つ置かれていた。


「マグカップ洗ってから言ってくださいよ」

「だよねえ」


 白井さんはそう言いながら、もぞもぞと起き上がる。寝ぐせのついた頭を気にする素振りもなく、宵越しのお茶を平然と飲み干し、裸足のままぺたぺたと洗い場へ向かう。ちなみに、事務所内は土足だ。彼女は当然のようにすっぴんだが、ちゃんと整えていれば大抵の男性を振り向かせられる美人なのに、私には残念でならない。いや、美人だからぎりぎり許されるのか。


「オーバーナイトしたお茶なんて飲んじゃだめですよ。それに茶渋が」

「見えないからいーの。そのために黒にしたんだから」


 彼女のマグカップは三つあり、そのすべてが黒色だ。はじめのうちは私が定期的に茶渋をとっていたのだが、彼女が使用した途端に元通りになるので、もう諦めることにした。


 事務所の主である陽は、どちらかというと几帳面なほうだ。整理整頓に時間をかけたり、収納に工夫を凝らしたりすることはないが、基本的に散らかさない。机上にある書類の溜まり具合で仕事の進捗がわかるが、溜まりに溜まっていたとしても許容範囲内だ。彼のマグカップは一つだし、茶渋の蓄積具合も致し方ないレベルである。それなのに事務所が雑然としているのは、言うまでもなく白井さんが原因だ。おそらく陽は、彼女の散らかし具合に辟易して私を雇うことにしたのだろう。


「ついでに顔も洗って来てくれ。クライアントとの面会を頼む。三十分後」

「えー、そんな話ありました? あ、陽さんの案件?」

「急で悪い。アポが急だったんだ」

「別にいいですよー。そういうことなら、顔面作ってきます」


 白井さんはそう言って、やたら大きな鞄を抱えてトイレへと向かう。いつもこんな調子だ。


「もしかして、例の奥さんですか?」

「そうだ。今度は奥方だけで来るらしい」

「なるほど、ばれちゃったんですかねえ」


 陽は軽く首を傾げただけで、それ以上何も言わなかった。不愉快そうとまではいかないが、面倒くさそうな面持ちに見えた。


 一人で訪れる女性との面会は、白井さんが担当することになっている。理由はごく単純で、以前陽が対応した際に面倒事が起きたからだ。端的に言えば、どうしてだか女性のほうが陽に執着してしまい、陽のストーカーと化したために、依頼どころではなくなるという珍事が起きた。白井さんの話によると、女性の変貌ぶりと陽のあしらいぶりは見ていて面白く、はじめのうちは陽をからかって大笑いしていたそうだ。しかしそのうち薄ら寒くなり、警察に通報したのも白井さんだという。事務所の取り決めとして、面会中の映像と音声は常に記録しているのだが、思いがけないところで役立ってしまった。


 この事務所の業務柄、面会に夫婦が揃わないというのは、何かしら問題があると見て良いように思う。実際その通りで、面会の際に一度も夫婦が揃わなかった案件では、遅かれ早かれ契約に至らないことが多い。ちなみに例の女性は、家庭内で少なからず虐げられ、夫や姑に言われるがままこの事務所を訪れたらしい。そんな状況で、容姿に申し分のない男性と話す機会があれば浮気したくもなる、だろうか。


 とにかくそういった問題が今後起こらぬよう、女性が一人で訪れた際は白井さんが、反対に男性だった場合は陽が対応することになった。そして念のために、面会相手が一人でない場合も極力二人で対応しており、私も助手として同席している。


 ここに訪れるのは、これから子どもを授かろうという人々のはずなのに、どうしてこんな配慮が必要になるのか。人間にはつくづく幻滅する。

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