第86話 Foxy Blue(4)

(1)


 大抵、この国の一般的な商店は十八時で閉店する。

 質屋も例に漏れず、十七時を過ぎた頃から閉店作業に入る。

 今日中にイースト地区すべての質屋を回ろうと思ったが、残すところあと二、三軒で時間切れとなった。

 今回シャロンは、自らの店と居を構えるセントラル地区からここイースト地区までの間、馬車を利用しなかった。当然、帰路も徒歩なので薬屋兼自宅まで戻るのに一時間以上かかる。


 今日回ったすべての質屋にネクタイピンは置いていなかった。

 少女についても口を揃えて『知らない』と返ってきた。

 一軒目で担保にならないと言われて、本当にどこかに捨てられてしまったのか。

 終日歩き回って疲れたせいか、つい悪い方悪い方へと考えてしまう。


 イースト地区へ訪れたばかりの午前、黒い霧の間から垣間見た灰色の空は紫と濃紺の二層に分かれている。硝子ビーズに似た小さな星が薄く光る。

 長屋テラスハウスの各部屋から明かりや話し声が漏れ、石の大きさが不揃いな石畳に影が落ちる。煙突から流れる黒煙が勢いを増し、シャロンは軽く咳き込んだ。


 帰ると決めたら早く行こう。さすがに疲れた。

 同じ地区内でもセントラルやサウス寄りの場所以外で辻馬車は走っていない。現在地点はどちらからも外れるので乗り合い所も存在しない。少なくともイースト地区を出るまでは徒歩だ。


 棒になりかけてる脚を内心で叱咤し、歩を進める。

 昨夜は歓楽街を走り回ったし、明日か明後日にまとめてどかんと筋肉痛がやってきそうで今から少し怖い。ネクタイピンが見つかるまでは這ってでも動くけれど。


「……ん??」


 背後からゆっくりと流れてくる音に、まさか辻馬車が……、と、淡い期待を胸に振り返る。が、当然違う。音の正体は一頭引きの荷馬車で、勝手ながらシャロンはほんの少しだけがっかりし――、しかけて、おや、と思う。

 それは荷馬車を牽引していた者も同じだったらしく、あれ、というつぶやいたのち、その場で停車させる。


「薬屋のマクレガーさん??マクレガーさんだろ??」


 その中年男性は面長で三角に尖った鼻先とこの国でよくある顔立ちだが、労働者階級にしては珍しく六フィート190㎝を優に超える長身で、薬屋の客(厳密に言えば彼の妻が顧客)であっても同性の顔と名前を覚えないシャロンですら印象に残る程だった。


「珍しいなぁ、マクレガーさんみたいな人がこの界隈ぶらついてるなんて」

「えぇ、ちょっと野暮用がありまして。でも今は帰る途中なんです」

「えっ、ここから薬屋までけっこう遠くないか??俺も寄るとこあるし途中までになるけど送ってこうか??」

「え、いいんですか??」

「あんまりきれいじゃないけど、それでもよけりゃ俺はかまわないよ」


 まさに渡りに船。彼の好意に甘えようと決める。

 礼を述べ、荷台に乗り込む。一人から二人に増えたことで一瞬軋むも、シャロンも彼も痩せているので何の支障もきたさない。汚れも特に見当たらず、腰を下ろす前に土埃を軽く手で払うだけでよかった。


「ノーランさんは今から仕事ですか??こんな時間から大変ですね」


 再び動き出した荷馬車。ノーランの隣で後ろの荷物--、棺桶にちらりと目をくれる。まさかと思うが。


「そうそう、急な葬儀ができてねぇ。急いで作ったんだよ。あ、ちなみに中は空っぽだから安心して」

「あぁ、でしたか」

「普段は葬儀屋と二人で運ぶんだけど、あいつ用事があるらしくて。まったく、飯の時間に出てくなんて!って女房に怒鳴られちまった」

「それは大変でしたね……、ご愁傷様です」


 彼の妻はグレッチェンと同じ年頃、しかも美人と評判だが、とにかく気が強く口が達者でしょっちゅうやり込められるらしい。自分よりずっと年若い美女にやりこめられるという点は本気で同情を否めないし、いっそ親近感すら湧いてくる。


「……その女房と年が変わらない娘さんが後ろの棺桶の主なんだよなぁ」

「……と、いうと??」


 冗談めかした語調から一転、ノーランは神妙に話し始めた。


「今に始まった訳じゃないし昔からちょくちょくあることさ。イースト地区出身の死んだ若い娘さん達の多くは縫製工場で働いてたんだ。糸や布の染料に含まれてる毒物が原因でね。死ななくても中毒症状が辛くて仕事を辞める子もいっぱいいる。でも辞めた後にすぐ別の子が同じ仕事に就く。みんな命を削ってでも今日明日の食い扶持稼ぐために必死でねぇ」

「…………」


 布を鮮やかに発色させるためには砒素やアニリンを、ごわついた獣毛フェルトを柔らかくするためには水銀を用いる。それらを素材としたドレス、帽子を好んで着用する上流階級はともかく、生産する労働者の健康被害は深刻である。


 それでも彼らは働くしかない。若くして命を落としてでも。


 若くして命を落とすのは工場労働者に限ったことじゃない。

 例えば、ロマンチックバレエで踊る娘たちも貧しい労働者階級出身ばかりだ。

 華やかな舞台で踊る姿からは想像しがたい過酷な練習に加え、娼婦まがいのも日常茶飯事だと聞く。

 彼女達が纏う衣装は美しく繊細な反面、非常に燃えやすい。衣装に照明のガス灯が燃え移って命を落とす者が数多くいた。危険を承知で『美しい衣装を纏い、その結果自分が燃えても文句は言いません』と念書した上で舞台で踊るのだ。


 確か、この街でも少し前に舞台で全身大火傷を負った娘がいたような――、と、唐突に顔も知らない気の毒な娘に思いを馳せかけ、ノーランの心配そうな視線とかち合う。


「だいじょうぶですか??辛気臭い話になっちまってすみませんねぇ」

「いえ、お気になさらず。ノーランさんのおかげで歩く距離が随分と減りますし、とても助かります。あっ、そうだ!」

「はい??」

「ちょっとお尋ねしたいことがありましてね」


 ノーランは仕事柄と人の好さからイースト地区内でも顔が広い、と、グレッチェンから聞かされたことがある。

 ひょっとしたら、あの少女のことを知ってるかもしれない。

 望みは薄いが、聞くだけ聞いてみる価値はある。







(2)


 ただネクタイに差し込むだけ。気をつけないと簡単に外れてしまいそうな、安っぽい形。持ち主が毎日丁寧に磨いている筈なのに燻し銀のようにくすみ、錆が目立つそれは、何度見直してみてもシャロンへと贈ったネクタイピンにしか見えない。


「このネクタイピンはうちの店主の物ですが、なぜビアンカさんが持っているのでしょうか??ビアンカさんは店主と顔を合わせたことありませんよね??」


 努めて平静を装い、動揺を悟られないよう声を低めて問う。

 決して怒ってもいないければ、気を悪くもしてない。


 グレッチェンの言う通り、少女ことビアンカはシャロンとの面識がない。

 ビアンカが薬屋に通い始めたのは約二か月前からだし、彼女が顔を出した時に限ってシャロンは自室に引き籠っていたからだ。

 しかし、シャロンは歓楽街で良くも悪くも顔が知られている。薬屋で会わなくても通りで擦れ違ったり、噂などを聞いて知っている可能性も高い。


「もしかして落とし物で届けてくれたのですか??」


 だとしても、それで薬の値段をまけたりツケにする気は一切ないけれど。

 ビアンカは相変わらず無言を貫いている。


「ビアンカさん。私は怒ってる訳じゃないのです。このネクタイピンをどうして貴女が持っていたのか、教えてください」

「も、もらったのよ」

「え??」

「昨日の夜、お金なくて困ってたら……、あたしの身体と引き換えに、これをくれたの。これを質屋に出せばお金になるからって!なのに、なのにさっ!いざ質屋に行ったら担保の価値もないって言われてさぁ!おねえさんはいい人なのに、ここの店主最悪だよっ!最初から価値ないって分かっててあたしのこと弄んで!あたし、まだ未成年なのに……!」

「……つまり、店主の未成年買春を黙っている代わりに、この軟膏を安くして欲しい、と??」


 ビアンカのあどけないそばかす顔に悪い笑みが拡がる。


「おねえさん、察しが良いねぇ。そゆこと!いっそタダにしてくれたらもっと嬉しいんだけど」









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