第85話 Foxy Blue(3)
(1)
労働者階級が暮らすイースト地区の住居は、赤もしくは黄煉瓦造りの二階建て
この街で一番規模が広い地区であり、百近く存在する長屋の一棟を前にシャロンは佇んでいた。
一階部分と二階部分で各一窓しかない格子窓、鱗屋根から伸びる煙突から真っ黒な煙が細く流れ、朝霧の残滓が混ざり合う。黒い霧が灰色の空を覆い隠す。
長屋一棟につき上下階合わせて全部で二十四部屋。シャロンから向かって右から四番目の一階の部屋は一見すると女性が好みそうな雑貨屋に見える。
格子窓の曇り硝子には色鮮やかなスカーフ、白地に花柄模様のティーセット一式、少し前に流行った意匠の帽子、豪華なドレス数点が映り込んでいる。
しかし、それら女性の気を引く品全て、別の女性が借金返済できずに質流れしてしまった代物でもあった。
『あのガキはおそらくイースト地区で暮らしてる奴だろう。ノース地区出身ならもっと垢じみて蚤にまみれてるし、肌つやももっと悪い。あと、スリなんて生温い真似じゃなくて殺人強盗くらい平気でやってのける。ウエスト地区出身者ならもっと手の込んだやり方するし、サウスのお貴族様方や成金様方の暇つぶしにもならねぇ。万が一クロムウェル党が裏で絡んでいたら、話はまた違ってくるが……、
『私も今回ばかりはクロムウェル党は絡んでいない、と思う。小規模かつ素人の寄せ集めの犯行じゃないかと』
『その素人にまんまと大事なモン盗られたのはどこの誰だか』
返す言葉どころか、ぐうの音さえも出ない。
『……ともかく、明日明朝、私はイースト地区の質屋すべてに足を運ぶよ』
『じゃあ俺は蚤の市を何か所か回ってみる』
質屋の扉を潜る。間口が狭いのに物が多く雑然とした室内、古着独特の臭いと樟脳の臭いが漂っている。天井は低く、中背のシャロンですら上がり際に頭をぶつけそうになった。
室内にいくつも置かれた丸テーブルの内、最奥のテーブルの前で短身痩躯の白髪の男が銀器を磨いていた。声掛けもせず無愛想にシャロンを一瞥し――、一瞥した途端、分かりやすく相好を崩した。
「いらっしゃいませ。旦那さん、どのようなお用向きで当店へいらしたのです??」
銀器を磨くのをやめ、店主はシャロンに手もみしながらすり寄ってくる。変わり身の早さに苦笑を禁じ得ない。
「店主。琥珀石付きの純銀製ネクタイピンと、飾り気のない安い銀のネクタイピンが二本、この店に置いてありませんか??」
店主の目が右へ左へ、左から右へ。
上から下へ、下から上へ。激しく泳ぐ。
「置いてあるんですね。私に見せて頂けないでしょうか??」
「…………」
「見せてもらえませんかね??見せてくれさえすれば、この店に不利益をもたらす真似は一切致しません。えぇ、見せてくれれば、の話ですけど」
穏やかに微笑んでるだけなのに、有無を言わさない威圧感ある笑顔。
相手は明らかに自分より上の階級。店主は早々に白旗を上げた。
「お、お待ちをっ」
「えぇ、お願いします」
慌てて奥へ引っ込んだ店主に少々罪悪感を覚える。この手の圧力は余りかけたくないが致し方ない。
数分後、青い
そーっと広げた布の中、確かにそれはあった――、が。
「店主。なぜ、琥珀付きのタイピンしかない??もう一本は??」
ダークブラウンの双眸が冷然と光る。店主は気の毒な程震え上がるが、追及は続く。
「答えてもらえませんかね。なぜ一本しかないのでしょう??」
「そ、れ、は……」
「続けてください」
口許のみで笑う自分はひどく不遜な顔をしているだろう。
額にぽつぽつ汗をかきながら、店主は呻くような声で言った。
「か、返したんだ……」
「返した??」
「そう、ひとつは突き返したんだよ……。こんな錆びついたガラクタ、担保にすらなりゃしないって!」
『錆びついたガラクタ』呼ばわりにカチンときたが、今注目すべきはそこじゃない。
「返したって、誰に??ひょっとして」
「こ、ここ、これ以上は話せない!あんた警察でも何でもないんだろ?!こっちも商売上守秘義務ってもんがあるんだ!!そのネクタイピンが旦那の物だって言うならタダで返すよ!盗難品なんてこっちも扱いたくないんでね!だからもう帰ってくれ!!」
店主は悲痛な声で叫ぶと、天鵞絨ごとシャロンの腕にネクタイピンを押しつけた。
勢いに呆気に取られていると、背中を入り口までぐいぐいと押され、強引に外へ押し出されてしまった。
まさか一軒目で、二本の内の一本が手元に戻ってくるとは。
けれど、もう一本は――、他人から見たらガラクタでしかなくとも、シャロンにとっては大切な宝物に変わりない。
だが、換金の価値無しと判断されたネクタイピンをあの少女がずっと持っていたりするだろうか。価値がないなら、と道端に捨てたり、ヨーク河に投げ込んだりしないか。新たな不安ばかりが擡げてくる。
もしくは――、あくまで希望的観測だが、雀の涙程度であっても金が欲しければ、手あたり次第他の質屋を回っている、かもしれない。
少女を探しつつ残りの質屋--、イースト地区だけでも質屋は十二軒存在する。
イースト地区の質屋になければ、歓楽街があるセントラル地区、たった一軒のみの質屋へ行ってみる。歓楽街の居酒屋でスリを働いているのに、同じ区域で盗品を売るとは考えにくいが、念の為だ。
念の為と言えば、ウエスト地区に七軒ある質屋にも寄ってみよう。
サウスで暮らす上流階級は質屋など無縁だし(縁があったとしても秘密裏にウエスト地区の質屋を利用する)、下手にノースで店を開いた日には住民に押し込み強盗されてしまう。
イースト地区の質屋すべて回るだけでも骨が折れるが、残る一本のタイピンを取り戻すためだ。
ハルから渡された手書きの地図を拡げ、シャロンは次の場所へと向かった。
(2)
薬屋のマクレガーが忙しいのは夕方以降であり、昼間の客足は閑散としている。
在庫確認を終え、暇を持て余したグレッチェンは椅子に座って本を読んでいた。
その本は大衆向けの推理小説で、ちょうど犯人捜しの最終段階に入り、いよいよ佳境を迎えていた。
次々と暴かれていく真実に静かに胸を躍らせ、主人公である探偵が犯人を言い当てようとする、まさにその時――、「ねぇ!」と甲高い声が降ってきた。
「あ、いらっしゃいませ」
素早く立ち上がり、本に栞を挟んでカウンターの隅へどける。
読書に夢中になり過ぎて来客に気づけないなんて、なんたる失態。
いいところで中断した名残惜しさよりも己に恥じ入る気持ちがはるかに勝る。
「いつもの軟膏でよかったですね」
小柄で華奢なグレッチェンよりも更に小柄な客は、こくん、と大きく頷いた。
慣れた手つきで背後の大きな棚から軟膏の瓶をすぐに探し出すと、カウンターへ置く。
グレッチェンの親指程の硝子小瓶の軟膏には、カレンデュラやラベンダーなどのハーブオイルが配合されている。色鮮やかな橙色が特徴的だ。
「どうされましたか??」
客は差し出された軟膏を受け取らず、ひどく強張った顔で見つめていた。かと思うと、グレッチェンへ助けを乞うような視線を送ってくる。
もしかして、手持ちが足りなくて薬の支払いができない、とか??
この薬屋に訪れる客は裕福でない者が多い。ツケでの支払いを求める者もいる。
しかし、グレッチェンもシャロンもツケでの支払いは認めていない。罵倒されようが掴みかかられようが、はっきり断っている。
身なりからしてこの客の暮らし向きは貧しいだろう。だからといって、情に流されては商売が成り立たない。
「あの……、今日、ちょっとお金が足りなくて」
「そうでしたか。申し訳ありませんが、用意できた時にまたのお越しを」
「あの、お金、はないんですけど……」
「いえ、お金以外の受け取りも断らせて」
断らせていただいてます、皆まで言うことができなかった。
明らかにまだ成人前と思しき少女が恐る恐る差し出してきたのは、シャロンの探し物--、かつて幼いグレッチェンがシャロンに贈った、あの、錆びついた安物のネクタイピンだった。
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