第77話 Back To Black(18)

(1)


 日没の数時間前だというのに、カーテンを閉めきった室内は思いの外薄暗い。

 手元で本の頁をめくるのにこの薄暗さは不便だからと、サイドテーブルのカンテラを天板の端に乗せ、ぎりぎりまで自分が寝そべるベッドに寄せる。隣では、自分と同じく一糸纏わぬ姿でベッドに寝そべりつつ、アドリアナがエメラルドの瞳を輝かせて本に見入っていた。


「ね、次!次の頁は??なんて書いてあるの??」

「ん、ちょっと待てよ……」


 まだかまだかと期待に満ちた眼差しに急かされ、新たに捲った頁を読み上げる。字が読めない恋人のために本や新聞を読んでやるのはちょっとした楽しみでもある、が――


「続きはまた後でもいいか??俺はこっちの続きがしたい」


 アドリアナが抗議するよりずっと早く言葉を唇で塞ぐ。口づけながら、空いている手で本に栞を挟んでベッドの隅へ押しやる。


 ハルがアドリアナを抱けるのは娼館の公休日にあたる安息日だけだったから、ほぼ一日中自室で抱き合うことも少なくなかった。周囲は勿論、アドリアナにさえ呆れられたが、自分は週に一度しか抱けないのに、週に何度も彼女を抱ける客が心底憎らしくもあり、認めたくはないが――、羨ましくもあった。

 今にして思えば、週に一度でも抱けるなら充分じゃないか、と、当時の自分に文句の一つでも言ってやりたい。








(2)



「……死人は抱けねぇからなぁ」


 数日前、ハンプティ・ダンプティな中年男を追って入り込んだ路地で、建物の影に埋もれるように煉瓦壁にもたれ、煙草を咥える。雨のせいでマッチの火がうまく擦り起こせない。何度擦っても火が点かないマッチ棒を投げ捨てる。箱から新たに出した一本は、一度擦っただけでぽぅっと燃え上がった。

 あの時と同じく日没数時間前にも拘わらず、辺りは薄暗い。ただし、カーテンを閉めきった自室ではなく、霧雨が降りしきるせいだ。雨よけで頭に被る上着に火が燃え移らないよう、注意を払いながら煙を吐き出す。


 肉体的、精神的疲労がピークに達したせいか、久しぶりに今は亡き恋人に想いを馳せ、触れたくなっている。

 絶対に叶わない願望だと分かりきっているが、重ねた肌の吸いつきの良さも、抱く度になぜか身体のどこかしらに増え続ける黒子の場所も、未だ鮮明に記憶の中にある。特に黒子の数は、ベッドの中で数えてはよく怒られたものだ。黒子の場所であの肉塊が彼女だと判明したのは、皮肉としかいいようがなかった。

 皮肉ついでに、といっていいものかわからないが――、遺体を解剖した結果、アドリアナの妊娠も判明した。まだ自覚症状も出ない、ごく初期だったらしい。

 彼女の仕事柄、ハルの子ではなかったかもしれない。だが、一応仕事時は常に彼女の側で避妊を怠らなかったし、逆に自分とベッドを共にする時はどちらも避妊しなかったので可能性は高かかった、筈。

 だから、子供が嫌いというのは嘘じゃない。


「ちくしょう、思い出したくないことまで思い出しちまったじゃねぇか」


 苛立ち紛れに咥えていた煙草を投げ捨てる。雨でふやけていく吸殻の火を靴底で揉み消す。

 彼女を抱けないのなら、適当に代わりを探せばいい。

 どうせ、一時の気分の昂ぶりを鎮め、疲れを取りたいだけだから。

 安息日の今日、街認可の娼館及び売春宿は休業している。

 無認可の店なら営業中かもしれないが、大抵は女の質が悪すぎる。(酷いブスか年増か年端もいかない子供か、アル中か病気持ちか)

 あとはそこら辺の街娼に声をかけるか、などと考えていると、ちょうど、車道を挟んだ目抜き通りの前で派手に飾り立てた女達が立っている。あの中で、まぁまぁ好みの女がいればいいが


「ん??」


 やや遠目で見ているせいか??

 あの元軍人の筋肉ダルマに殴られて目がおかしくなったか??

 両目を手の甲でゴシゴシ擦り、もう一度目抜き通りにたむろする女達の様子を窺う。

 間違いない。ハンプティ・ダンプティ追いかけている時にぶつかった娘もいる。

 よりによって売春をしているなんて、益々アドリアナと被るじゃないか。何の因果だよ。


 しばらく呆然と眺めるしかなかったハルだったが、ふと、女達に違和感を覚えた。

 街娼であれ雇用娼婦であれ、娼婦が客引きする際、基本は二人以上の集団で行う。最初はアドリアナ似の娘も仲間の一人だと思っていたが、どうも様子が違っている。

 かの娘の他に街娼は四人。その四人はどうやら仲間同士らしく、娘一人が部外者みたいだ。娘を囲む女達の表情は一様に厳しく、ヒステリックな喚き声が通りに響いている。

 詳しい内容までは聞き取れないが、たぶん、島に関する揉めごとだろう。


 対岸の火事だと無視してもよかったのに。女同士の諍いなど関わらないのが賢明なのに。

 足が勝手に動き出す。馬車も荷車も通らない静かな車道を渡り、目抜き通りへ進んでいく。


「よぉ、レディ達。そんなにぎゃんぎゃん喚いてちゃあ、折角の美人が台無しだぜ??」

「ちょっとやだぁ!ハルさんてばぁ、見てたのぉ??」

 ハルに声を掛けられると、かの娘以外の四人は一斉に媚びた笑顔と猫なで声に切り替わる。

「ハルさんこそぉ、お顔がヤバいわよぉ??喧嘩でもしたのぉ??」

「あぁ、まぁ……、ちょっとな」

「ね、ねっ、もちろん、ハルさんが勝ったのよね?!」

「あん??当然だろ、当然」


 キャー!!すてきぃ!!!!と黄色い声が煩わしいような、満更でもないような。

 とりあえず一発不敵に微笑んでやれば、歓声は更に大きくなる。ちょろい、ちょろすぎる。


「あ、あのね!ハルさん!!ハルさんからも、この子に言ってやって欲しいのよ!!」

 歓声が収まると、女の一人が終始無言に徹する娘にびしり、指先をつきつけた。その一声に倣い、他の女達も同調し始める。

「勝手にアタイ達の島で客引きしようとしてたからぁ、シメて……、じゃなくて、注意してた訳でぇ」

「そうそう!新参者は新参者らしく、礼儀ってもんをね!」

「その辺のルールを、ねぇ……、叩き込んでやるべきだと思いませぇん??」


 全然思わねぇよ、と内心の突っ込みはおくびにも出さず、「ふーん、そりゃ熱心なことで。確かにルールは守らなきゃだな」とだけ言っておく。物凄く適当な返しなのに、女達は大袈裟なまでに何度も頷いてみせる。単純か。


「じゃあ、この新入りには俺の方からよく言い聞かせておくから。レディ達は自分達の持ち場戻れよ」

「えぇ??いいのぉ??」

「じゃーあ、ハルさんのお言葉に甘えさせてもらうわぁん」

「おねがいしまぁーす」

「あとはよろしくぅ」


 面倒事を丸投げできて清々する、とばかりに、女達は手をひらひら振って目抜き通りから去っていく。

 娘はというと、喧嘩が原因で顔を腫らしたガラの悪い男と二人きりにされた不安から、ガチガチに身を強張らせている。


「さて、と……」


 あくまでさりげなく、改めて娘の容姿をしげしげと観察してみる。

 小柄だったアドリアナと違って背丈は中背、髪色も亜麻色ではなくストロベリーブロンドだし、光彩はエメラルドではなくアイスブルー。完全なる生き写しという訳ではない、ないけれども。

 零れんばかりの大きな瞳といい、幼さの残る丸顔といい、美人ではないが愛嬌ある顔立ちそのものが酷似していた。

 寒さのせいか不安のせいか、小さく震えてさえいる娘に、どう声をかけたものか。

 もちろん、部屋に連れ込んでどうこうしようという気はさらさらない。そうするには、余りにアドリアナに似すぎている。


「おい、あんた……」

「あぁ、もう!むかつく!!」

「は……??」

「一人だったら何にも言えない癖に!集団になった途端に偉ぶっちゃって、バッカみたい!!お兄さんもそう思いません?!」

「あ、あぁ……、まぁ、な……」

「ですよね!もう!あの人達がバラけているのを見計らって客引きした時は特に何にも言わなかったのに……、あぁ、やだやだ!!これからどうしようかなぁ、目付けられちゃったし」

「…………」


 震えていたのは寒さでも不安でもなく、怒りが込み上げていたせい。

 口を開いた途端、矢継ぎ早に飛び出す、元気かつ気の強さ全開な言葉たち。

 前言撤回。

 顔は瓜二つでも、おっとりと優しく、控えめだったアドリアナと性格がまるで正反対だ。


「あっ、ごめんなさい!!助けてもらったのに、お礼より先に文句が出ちゃって!!ありがとうございました!!」

「…………」


 ぺこっと軽く頭を下げた後、明るく笑った娘の顔。

 青空に浮かぶ太陽の笑顔に、思わず手が伸び――、そうになり、押しとどめる。


「別に……、礼には及ばねぇよ。その代わり」

「私を買ってくれるんですか?!」

「買わねぇよ!せいぜい十六、七の小娘買う程女に困っちゃいない」

「なっ!私、これでも十八だし、もうすぐ十九になるんですけど!」

「三十過ぎのオッサンにゃ二十歳以下は子供だ、子供」


 むぅっ!と膨れっ面で睨み上げる顔の子供っぽさときたら!

 色気もへったくれもなさすぎる。これでよく客を引けたものだと脱力したくなった。


「悪い、ちょっとばかし揶揄い過ぎた。詫びも兼ねて、特別にうちの店で一杯奢ってやるからついてこいよ。ラカンターって居酒屋知ってるか??俺はそこの店主でハロルドっていう。ハルって呼んでくれりゃいい」

「ハル、さん??」

「そう。お前さんの名前は」

「私??私はメリッサよ」


 ハルの問いに、娘は再び太陽の笑顔で応える。いつしか霧雨も止んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る