第78話 Back To Black(19)
(1)
「やめるんだ!グレッチェン!」
シャロンの叫びが耳元で響く。次いで、座席から身を乗り出した自分を、シャロンが腕を伸ばして押しとどめていることに気付いた。どうやら、無意識でハーロウに掴みかかろうとした、らしい。
「随分と奇特な方ですね、レディ・グレタは。貴女を酷く毛嫌いする者のために激高するとは」
グレッチェンとシャロン、血に濡れた頬を押さえるミルドレッドをちらりと一瞥すると、ハーロウは嘲笑しながら馬車の扉を大きく開け放した。
「Mr.マクレガーもレディ・グレタも私から解放されたかったのでしょう??今ここで望みを叶えてあげます。さぁ、降りてくださ――」
「んふ、うふふふ、うふふ――」
どこか夢見心地な、恍惚とした笑い声がハーロウの言葉を遮った。座席に片手をつき、俯いたままのミルドレッドが漏らしている。
「ふふふ、ふふ、んふふふ――、ふっふふふ、うふぅ――」
頬と同じく血塗れの手を離し、ゆらり、立ち上がる。
頬に残された深い傷からは、未だ、たらたら血が流れている。キトゥンブルーと称えられた瞳の澄んだ青は濁りきっていた。
「うふふふぅ、あは、うふふふぅん――」
「待ってください!!」
ゆらりゆらゆら、ふらふら。今にも倒れそうなのに、絶妙な均衡を保ちながら馬車を降りていくミルドレッドの後を追う。更に自分の後をシャロンが続く。
石畳の堤防に降り立つと、霧雨が止んだ代わりに黒い霧が辺り一帯を覆っていた。深い闇に紛れ込んだかのような錯覚を覚える。
背中越しに馬の嘶きと馬車が走り去る音が聞こえた。音につられて振り返れば、御者台に座ったハーロウが自ら馬を操縦していた。本当なら何としてでも引き止めねばならないだろうが――、横目で睨みながら、ミルドレッドを追いかける。
敷石の凹凸や僅かな隙間に足を取られつつ、ミルドレッドは道の端へ端へと進んでいく。堤防から河へと下りるつもり、か。何のために――??身投げする以外に理由があるというのか??
「ミルドレッドさん!!」
一気に距離をつめ、蝶が舞うようにひらひら泳がせていた細腕を掴み取る。即座に振り払われるかと思われたのに。
ミルドレッドは誇り高い彼女らしからぬ、緩みきった顔でへらり、へらりとグレッチェンに笑いかけてきた。
「なぜ、とめるのかしら??わたしは、戻るだけ。わたしがいるべきばしょへ、戻るだけ、よ??」
「戻る、場所??」
「ええ、そう。おとうさまも、おかあさまもいないから。サリンジャーのみせなんか、とうぜん、ちがう。セオドアもちがった。みんな、みんな、わたしがいるべきばしょじゃないわ」
そんなこと――、などと、例え気休めであっても、グレッチェンに否定できる筈がない。
自然と腕を掴む力が緩まったが、ミルドレッドは振り払いもしない。
「わたしにはないの。ないのよ。あなたみたいに、なにもしなくてもむじょうけんでたいせつに、たいせつにしてくれるひとも、ばしょも。なぜかしら、ねぇ??あなたなんかより、わたしのほうがずっと、たいせつにされるべきにんげん、なのに」
「…………」
「だから、戻ることにしたの」
「ですから、どこへ……」
「闇よ、闇に戻るのよ。もう、うんざり。もう、たくさん。そう、闇よ。闇だけは、わたしをうけいれてくれるから」
今度こそ、ミルドレッドはグレッチェンの腕を振り払った。
(2)
馬車から降りろと告げられた瞬間、あぁ、またか、と、もう何度目か知れない諦観にどうしようもなく襲われた。その諦観をどうにか捨て去り、食い下がってみたものの――
頬の傷を押さえながら、止まらない血の温かさを感じながら。
自らに残された
セオドアには不実さの、アンには無知さの代償を。そして、夫妻揃って我が子を失う哀しみを与えてやりたい。お前たちが放つ、無駄に強すぎる光のせいで私はより一層深い闇の中で、息も絶え絶えだというのに。
己が舐めてきた辛酸の十分の一でいい。輝かしいばかりの彼らの人生に、黒々とした闇を植え付けてやりたかった。
私は美しいだけの愛玩人形じゃない。都合良く従うだけの操り人形じゃない。
考える頭もあれば感じる心もある。幸福を得るための努力だって、充分過ぎる程怠らなかったのに。
『結局はただの八つ当たり』
うるさい。
『男を頼ってしか生きられない弱さの正当化』
うるさい。うるさい。
『美貌以外の価値は決して見出してもらえない』
うるさい。うるさい。うるさい。
『いっそのこと、もう闇の中に消えれば??』
『そしたら、嘘みたいに楽になれる』
悪いのは私じゃない。
私を愛さない人々、私を救わない世界。
だから――
グレッチェンの腕を払った瞬間、ミルドレッドに纏わりつく黒い霧が、ほんの一瞬だけ晴れた、気がした刹那。背後から銃弾が右肩を貫いた。
(3)
悲鳴を上げる間もなく、グレッチェンはシャロンの腕に引き寄せられた。
お蔭でグレッチェン自身は掠り傷一つ負わなかったが、白い石畳の上に倒れたミルドレッドの右肩からは血がどんどん溢れ出てくる。石畳の白が赤に塗り替えられていく。
先程の野盗の残りが潜伏していたのか。最大限の注意を払いながら、シャツの片側の袖を肩の縫い目に沿って引き裂く。シャロンと共に急いでミルドレッドの止血をしていると、複数の足音が堤防の下から徐々に近づいてくる。
警戒心がぐっと跳ね上がったが、黒い霧の中からちらちら見えてくる姿、服装で野盗の可能性は低い。クロムウェル党員にしては駆けつけるのがいささか早い気もする。
「ほらなぁ、言っただろぉー??撃つのはミルドレッド一人だけでいいって。あとの二人は俺の知人だし、たぶん、運悪く巻き込まれちまっただけじゃねぇかなぁーって。お前らだけ堤防に行かせるつもりだったけど、急遽俺も行く羽目になったのは不幸中の幸いだわ。じゃなきゃ、全員に向けて発砲してただろうしぃ」
聞き覚えのある、あり過ぎる、間延びした声が頭上から降ってきた。
緊張と警戒心が見る見る解けていく一方で、なぜ、どうして、という疑問、不審が新たに擡げてくる。シャロンも同様なのか、赤と白が混じり合う石畳を見つめながら歯噛みしている。
絶句して顔を上げようともしない二人に構わず、ディヴィッドは共に駆けつけた男達数名に指示を出していた。その内の一人が失血で意識をなくしているミルドレッドを抱え上げようとした時、初めて「この人に触らないでください!」と叫び、顔を上げた。
見上げた先には、ミルドレッドを抱え上げようとしてグレッチェンの叫びに思わず動きを止めた見知らぬ男とディヴィッドが、少し困った顔で見下ろしていた。
「お嬢ちゃんさぁ、なんで撃った、とか絶対思ってるだろぉ??」
「……当然じゃないですか。捕縛が目的だとしても撃つ必要なんて」
「あるんだよ。そうしろ、って命令された以上は」
誰に、と、問おうとして、ぽんと肩にシャロンの掌が置かれた。ダークブラウンの双眸が『気持ちは分かるが、それ以上は追及するんじゃない』と警告を発している。
ディヴィッドが浮かべた酷い渋面もまた、彼自身決して納得していないことを物語っていた。
風の噂によると、サリンジャー一家は歓楽街始めこの街の治安を守るべく暗躍する一方、ファインズ男爵家の犬と呼ばれる程、かの家と密接な繋がっているという。
セオドア・アンドリュースは、現当主ダドリー・ファインズ男爵の細君の弟、つまりは義弟にあたる。ミルドレッドが逮捕、もしくは自ら出頭し自首した場合、少なからず身内の醜聞が白日の下に晒されてしまう。
もしも予想通り、ファインズ男爵による醜聞の隠蔽だとしたら。
レズモンド家最大の醜聞の大元にも拘わらず、親族の醜聞隠蔽によって日の当たる場所で生きられる今のグレッチェンに彼らを責める資格などない。
急速に身体が、心がしんと冷えていく。紡ごうとした言葉全て、瞬く間に霧消していく。
呆然とするグレッチェンを尻目に、ディヴィッドは着用する黒い背広を脱いだ。
毛布代わりのつもりか、血が付着するのを防ぐためかは分からないが、瀕死のミルドレッドを脱いだそれに包むと、さっと抱き上げた。
目の前で、ミルドレッドの長い髪がさらさら風に靡いている。濃度を増した黒い霧よりもずっと、深く濃い闇のような髪色は、彼女の心に巣食う闇とよく似ていた。
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