第76話 Back To Black(17)
(1)
「賭けに勝ったんだしさぁ、さっさと情報吐けよ」
ハルが帰ったのと入れ替わるように、よろよろと緩慢に起き上がるモーティマーにディヴィッドはすかさず情報提供を促した。だが、彼を焦らすつもりなのか、モーティマーはわざとシャツに腕をゆっくり通す。ディヴィッドはすでにいつも通りの黒スーツに着替えている。
「言われなくとも。あの、ミルドレッドとかいう女は、ハーロウさんの屋敷に匿われている。だが、今屋敷に乗り込んだとしても二人とも屋敷にいないと、思う」
「んんー??どゆことぉー??」
「この時間帯、あの女は両親の墓参りに教会の墓所へ出掛ける。ハーロウさんは監視も兼ねて墓参りに同伴する。どこの教会かは」
「知ってる。
「それなら話は早い。一刻も早くあの女を掴まえたいなら、あの教会へ行け」
用は済んだとばかりに、モーティマーは床にどかり、腰を下ろす。
僅かに残る疑いの目で見下ろすディヴィッドとジョゼに構わず、よれたシャツのポケットから葉巻入れを取り出そうとしていた。
「んじゃ、ジョゼ、すぐにあの教会へ行くかぁー」
「だね」
揃ってモーティマーに背を向け、扉に向かって数歩進んだ矢先。
突然、ディヴィッドが項を抑え、その場に蹲った。
「ディヴィッド、さん……??」
異変に勢い良く振り返れば、モーティマーは人差し指と中指の間に葉巻を挟んで咥えていた。葉巻から煙は漂っていない。
「敵に対して簡単に背を向け過ぎだ」
「何をした」
表情はほとんど変わらないが、一段と低い声で詰問する。
モーティマーは立ち上がりながら、いつになくむきになるジョゼをせせら笑う。
「ふん、ちょっと毒針を吹いてやっただけさ……」
皆まで言わせず身を翻し、突進する。向かってくる剛腕を躱し、瞬速で逞しい肩に飛び移る。
足首を掴もうと伸びてきた掌を蹴り上げ、右足の踝ら辺――、ブーツの飾り釦を親指で強く抑え、間髪入れず太い首を強く蹴っ飛ばす。その爪先からは鋭利な刃先が飛び出していた。そう、蹴飛ばすと見せ掛けて首を掻き切ったのだ。
噴き上がる血飛沫で肌やドレスを汚しながら、床に着地。ディヴィッドの傍へ駆け寄る間にモーティマーはうつぶせに倒れた。
「ディヴィッドさん」
未だ蹲るディヴィッドの、項を抑えたままの指を一本一本、無理矢理引き剥がす。指の間に収まっていた細い針を床へ投げ捨てたところでジョゼの動きが止まり、細い目を更に眇める。
「謀ったね」
「へへ……、バレたかぁ」
「心配して大損だよ」
「しょーがねぇだろう??ガキの頃から少しずつ、毒に慣らされてきたんでねぇー。この程度じゃあ身体の自由は奪われたりしないんだわぁ」
「あぁ、そう」
「にしても、派手にやってくれたねぇ。後始末どうすっかなぁー」
針が刺さった痕を引っ掻くディヴィッドと共に、自ら流す血の海に沈んだモーティマーを見下ろす。
「こいつはまぁ、このままほっときゃ死ぬからいいとして……、あの女とどう接触するか……」
「あの教会はセントラル地区とイースト地区の境にある。サウス地区に存在するだろうハーロウ・アルバーンの邸宅から最短距離で行くのならセントラル地区を通り抜けるのが一番早い。ただし、ミルドレッドのことだからうちが管轄するセントラル地区は文字通り避けて通りたい筈。そうなると方法は二つ。イースト地区とセントラル地区の間を通るか、イースト地区の中を通っていくか。もしくは……、ちょっと考えにくいとは思うけど、イーストエンドまで迂回してノース地区との境、ヨーク河支流の堤防を通って、イースト地区を抜けてセントラル地区との境へ出るか……」
「最後はさすがにないんじゃねぇ??あそこの堤防は、水が引いている時は野盗が出没しやすい場所で有名じゃん??」
「でも、上流の連中がさ、危険と引き換えにしてでも人目を避けたいお忍び外出とかで、あの堤防通るみたいだし」
「んんんー、そうだなぁー。んじゃ、イースト地区とセントラル地区からサウス地区に通じる道と、例の堤防との二か所に何人か回して張り込ませるかぁー。つー訳でさぁ、
(2)
一発の銃声と同時に、御者の頭が弾けるのを目撃したミルドレッドの意識は一瞬遠のきかけた。
更には御者の身体が地に落ち、車輪に轢かれていく感覚が伝わってきて強い吐き気も催す。口元に両手を宛がい、喉元までせり上がってきた吐瀉物を飲み込む。
銃声による怯えと興奮。操縦する者をなくした馬達の高い嘶きが響き渡る。
「騒がしい。何事ですか」
ナイフを一旦下げて、ハーロウが煩わしげに小窓のカーテンを開けた途端、車体が上下左右に大きく傾いた。二頭いる馬の内一頭が興奮の余り、後ろ脚で立ち上がって前脚で宙を掻き乱していた。
誰もが少なからず混乱をきたす車内、シャロンがグレッチェンに「今だ、おいで」と、小声で鋭く呼びかける。グレッチェンは静かに、かつ素早くミルドレッドとシャロンの間に身を置いた。
普段であれば、隣に来ないで、と牽制できたが、今のミルドレッドにその余裕はない。グレッチェンの身柄を手元に確保できた瞬間、シャロンのあからさまに安堵した顔がやけに胸をざわつかせる。けれど、すぐにそれどころではなくなった。
揺れに揺れる車体、暴れる馬に巻き込まれない程度に、男が数人――、各々の手に銃や棍棒などの武器を握り、無法者然とした
「やれやれ、困りましたね」
困ったという割に、ハーロウの表情も口振りも全く困っていない。至って冷静であるし、この状況を楽しんでもいそうな。
「おそらく野盗の類、ですか、」
「おら、お貴族様よぉ!馬車から降りて来いってば!!」
「貧しいオレ達に、ちぃーっとばかしお情けかけてくれよ!!」
「ちょっとどころじゃない、たんまりくれてもいいんだぜ??」
あぁ、嫌だ。下卑た貧民の汚らわしさときたら。
こんな風に強硬手段に出る以外で、上流の人間に近づく事すらままならないというのに。
表情も考えも全く読めないハーロウはともかく、薬屋店主と小娘もこれだけは自分と同じ想いを抱いただろう。
ほら、性急な者はもう馬車にどんどん近づいてさえくる。誰が近づいていいと許可を――
「きゃああ!」
男が扉の把手に手をかける直前、ハーロウは小窓から男の肩を撃ち抜いた。折り畳みナイフの他にも拳銃も所持していたなんて、などと慄いていると、銃創の痛みでのたうち回る男の頭に容赦なく二発目を撃ち込む。
激高した仲間達が一斉に馬車へ押し寄せてくる。だが、拳銃を構えているのはハーロウだけではない。シャロンまでハーロウと反対側の窓越しに拳銃を構えているではないか。
「シャロンさん……」
「わかっている、命は奪わないよ」
緊急事態下の、ほんの短くも仄かな甘さを含む温いやり取り。先程二人に感じた胸のざわめきが再び、否、一層激しさを増す。目を覆い、耳を塞ぎたくなる暴力的な状況、我が身に迫る危険に震えながら、正体不明のざわめきは消えてくれなかった。
(3)
ハーロウとシャロン、二人掛かりの応戦によって、遂に野盗は傷付いた仲間を引きずって(死んだ男は放置)蜘蛛の子を散らすように堤防から逃げ出していった。
「逃げ出したところで、この件が警察に見つかれば逮捕も時間の問題だというのに。まぁ、警察が介入するより先に、我が党員たちに
もう何度目かの蛇の視線が、シャロン、グレッチェン、ミルドレッドへと順に注がれていく。
「Mr.マクレガー。思わぬ珍事が起きてしまいましたので、一旦話を切り上げましょう。今日の所は双方のためにもお帰り下さい。それから、レディ・ミルドレッド」
「え……、な、なんですの……??」
「貴女も。お二人と共に馬車を降りてください」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「先程話しました通り、野盗は一応我が党員に始末させます……、が、万が一、警察が関わってこないとも限らない。そうなりますと、貴女を隠匿している訳にはいかないのです」
「え、で、でも……、すぐに別の街へ……」
「野盗の始末の方が優先です」
「話が違うわ……!私は絶対馬車から降りません!!」
「では、嫌でも降りたくなるようにしてあげます」
言うやいなや、ハーロウは座席に転がっていた折り畳みナイフをさっと手に取ると――
シャロンとグレッチェンが止める間もなく、ミルドレッドの滑らかな頬を切りつけた。
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