第68話 Back To Black(9)
(1)
「痛い痛いっ!もっと力を抜いてくれないと……、いたたたた!!」
「さっきは物足りないからもっと強く、と仰ったじゃないですか……」
「そこは微妙な力加減でだね……、痛っ!」
「シャロンさん、騒ぎ過ぎです」
床も机も綺麗に整理整頓され、大量の空瓶も始末された私室のベッドにて、シャロンは無様な悲鳴を上げている。そんなに痛がるほどでは……と、同じベッドに乗って肩から背中、腰、腰から脚を押しながら、グレッチェンは呆れ果てていた。
「5000ヤード近く全力で走ったハルさんとサリンジャーさんならともかく、馬車で移動したシャロンさんの方が身体が痛くなるなんて。情けないにも程があります」
「あのハンプティ・ダンプティを捕獲するのが大変で、意外と体力を要したんだ。それに、帰りはハル達と歩いて帰ったのだから仕方ないだろう??」
「でもハルさん達は往復してますよね」
冷たく一蹴し、シャロンの身体から手を離す。
「あまりやりすぎても揉み返しがきますから、この辺にしておきますね」
「……そうだな。うん、ありがとう」
ありがとう、と言いながら、シャロンがどこかホッとした顔をしたのが引っ掛かる。そんなに下手だったかしら、と、少し首を傾げたくなった。
シャロンが内心、グレッチェンに身体を触れられ、押される度に軋むベッドの音によって揺さぶられる理性を必死に保っていたとは露ほどにも思っていない。大袈裟に騒いでいたのもそのせいだ。
「それにしても……、心配ですね。本当に警察に預けず、サリンジャーさんに赤ちゃんを任せても大丈夫なのでしょうか」
あれから――、ジョゼとの一件、新聞で衝撃の事実を知ってから三〇分程してシャロン達が帰ってきた。
「グレッチェン、少し顔色が悪くないか??」
「看板娘ちゃんの顔色の悪さはこのせいさ。あぁ、ディヴィッドさんとハロルドさんも一緒に見てよね」
カウンターで呆然と佇むグレッチェンの元へすぐに駆け寄ったシャロンだけでなく、ハル、ディヴィッドも呼び寄せると、ジョゼはぶっきらぼうに例の新聞記事の頁を見せつけた。
だが、グレッチェンと違い、「やっぱりそういうことか」と、三人は顔を見合わせて納得しただけだった。驚く素振りをあまり見せない三人をグレッチェンとジョゼが意外そうに見上げる。
「実はなぁー……」
珍しく歯切れ悪そうに口籠りつつ、ディヴィッドは語り始めた――
「……でさぁ、アンタに仕事依頼してきたのはどんなヤツだった訳ぇー??男??女??若いの??年いってるの??見た目はイケてるの??不細工なの??」
ディヴィッドはへらへら笑いながら、再び男を壁に押しつけ、胸ぐらを締め上げた。恐怖と息苦しさのせいでハンプティ・ダンプティは顔を赤黒く染め、舞踏病患者のような動きを見せ始める。その様子にシャロンは思わず顔を背けた。話は聞き漏らさないよう、耳だけに意識を集中させて。
「……わ、わか、わかい、おとこ、男だったよ!とか、いって、も、にじゅうこうはん……くらいっっ!!」
「うんうん、それでぇ??」
「か、かおに、いいや、かお、だけじゃないっ!くびにも、う、うでにも、ツギハギみたい、みたい、な、キズが、からだじゅうに……!!」
「うんうん、もうちょい詳しく聞かせてくんない??」
ディヴィッドが締め上げる力を緩めたのだろう。ハンプティ・ダンプティがふはっと小さく息を漏らした。すると、突然、ディヴィッドは弾かれたように振り返り、空を見上げ、叫んだ。
「伏せろ!」
ほとんど怒号に近い叫び。叫んだディヴィッドは当然ながら、ハルもシャロンも、本能的に危険を察して地に伏せる。銃弾が数発、降り注いだ。
「リー・エンフィールドかぁー。弾薬が円筒状、しかもリムがついているもんなぁー」
地面に伏せたまま、傍らに転がった弾薬の形状を見てディヴィッドが呟く。幸いにも、ハンプティ・ダンプティが泡を吹いて気絶した以外、建物の壁や地面への跳弾も当たらず、誰も掠り傷一つ負っていない。とはいえ、第二波が訪れる可能性は高い。伏せた態勢で様子見すること数分。
「ありゃ、わざと外したんだろうな。威嚇か警告か、もしくは両方――」
「両方じゃね??ハロルドとマクレガーの旦那はまだちょっとそのままでー、試しに俺が先に起き上がって様子みてみるわー」
ディヴィッドは腰のホルスターから拳銃を抜き取り、ゆっくり起き上がった。時折、頭上を見上げて警戒しながら、さして広くない路地の中を二、三度往復する。
「たぶんだけど、二人とも起き上がってもいいぜぇ??一応、用心だけは忘れずにねー」
ハルと共に起き上がれば、ディヴィッドは自分が立つ位置に来るよう、ちょいちょいと手招きした。
「狙撃手はあの辺にいたんじゃね??」
ディヴィッドは路地の左上、三人が走ってきた通りから一本北側の通りの建物を指差した。通りに面しているのは、随分前に潰れた食堂で煤けた木戸には、長い間風雨に晒され、あちこち破れて黄ばみが目立つ『closed』の張り紙。
「違う、空き物件の裏側だって」
やや焦れた声でディヴィッドは指の角度を少し上にずらした。指が差し示すのは、潰れた食堂の裏手、黒煉瓦造りの重厚な雰囲気の三階建てコテージ。
「あの三階の窓から発砲したんだろー??よくみると、格子窓がちょっと開いてるしぃ??」
ディヴィッドは地面に転がる適当な石を拾い上げると、件の建物の窓目掛けて投げ放った。石は歩道の通行人、馬車や荷馬車が行き交う車道を越え、廃食堂の上も越えて、吸い込まれるように窓へ飛び込んでいく。
「Mr.サリンジャー、何を……!」
「ささやかな仕返しをお見舞いしてやったんだよ、クック・ロビンの連中に」
「お前なぁ、ガキみたいな仕返ししてんじゃねえよ。まぁ、あのデブがシャロンの店から左に真っ直ぐ走ってこの路地へ逃げ込んだってのも、あながち偶然じゃないかもな」
「えっ、それでは、もしかして」
「なんだ、シャロンは知らなかったのか。あの三階建てが例のクック・ロビンって店だよ」
(2)
「レディ・ミルドレッドは一家の店の関係者だったし、アンドリュース氏は一家の
「そう、ですか」
『今日の所は赤ん坊の安全確保が第一だから』と、記事を読んで間もなくディヴィッドはジョゼと赤ん坊もといケイトリン・アンドリュースを連れて薬屋を後にした。続いて、自分も開店準備があるからとハルも去った。
「やれやれ、今日はとんだ災難続きの一日だったよ」
ベッドの端に腰かけてぼやくシャロンを尻目に、その隣に座るグレッチェンは思考の海を漂っていた。
三年前、最後にこの店に訪れたミルドレッドはかつてない程の喜びに満ち溢れ、本来の美しさに更なる磨きがかかっていた。苦手な人物ながら、幸せを手に入れた者だけが放つ輝きが眩しく思えたものだ。それなのに。
妻にと請われた筈がなぜ、アンドリュース氏は別の女性と結婚し、ミルドレッドは家庭教師に――??
家族写真に混ざる彼女の頬はこけ、辛うじて浮かべた笑顔はひどく強張っている。写真撮影に緊張しているだけにも見えるが、そこに彼女特有の高慢さ、優雅さはどこにも見当たらない。
『どんなに貴婦人ぶってみたところで娼婦は娼婦。自分は他とは違うとか思ってると、そのうち全部ひっくり返されるんだから』
かつて、ミランダが吐き捨てた台詞が胸をひどく締めつけると共に、ミルドレッドに何が起きたのか。
常に自信に満ち溢れていた彼女が、今や誘拐犯の嫌疑がかけられている。
苦手で仕方なかった人物なのに、何故これ程気にかけてしまうのか。
彼女が、というより、娼婦が人並みの幸せを得られない現実に、他人事ながら歯噛みしたくなってしまうのかもしれない。グレッチェンの初めての友人だった、アドリアナを思い出してしまうから――
「どうしたんだね??」
「いえ……、何でもありません」
「本当に??」
「……はい。あの、」
「うん??」
「今度の安息日、久しぶりにアドリアナさんに
心配そうに顔を覗き込んできたシャロンに無理矢理薄く微笑んでみせる。
上手く笑ったつもりだが、彼と出会った当初の、笑っているのか泣いているのかわからない、下手な笑顔だった。
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