第69話 Back To Black(10)
(1)
この国では安息日の労働は医療従事者、警察、消防関係者以外原則禁止されている。ただし、領主の許可さえ得られれば、午前中に限っては労働を許されていた。
例えば、教会近くの広場、ヨーク河沿い、ヨーク河に架かる五連の石橋(通称ヨーク橋)の上で開かれる朝市もその一つである。
橋の上を爽やかな風が吹き渡っていく。この時期の昼前、街を覆う霧が晴れることも少なくない。淡く澄んだ空に売り子たちの呼び声、買い物に訪れた客の声、荷馬車を牽引する馬の嘶きが響き渡る。
大勢の買い物客で賑わう市場の通りを、先程買ったばかりのサンドウィッチと焼き立てマフィンが入った紙袋を抱え、グレッチェンは花を売る屋台がないか探していた。人混みの間からちらちら垣間見える屋台の売り物に視線を巡らせ、あちこちで飛び交う売り子と客の言葉に耳を澄ませながら。
人混みに乗じてスリを働く者(子供も油断ならない)に狙われないよう、財布や品物も守りつつ歩くこと数分。遂に、花籠を手に提げた少女と、色とりどりの花を並べた荷車を見つけた。人波を掻き分けて目的の花売りの少女の元へ突き進む。
「お兄さん、いらっしゃい!恋人への贈り物??」
「いえ、友人のお墓に供える花が欲しくて……」
グレッチェンの肉声を聞くと、売り子はおや??と一瞬不思議そうな顔を見せた。気づかない振りして、グレッチェンは売り子の籠の中、荷車の花々を順に眺めた。
ここに置いてある花はバラが圧倒的に多く、バラ以外はマーガレット、ディジーくらいしかなさそうだ。アドリアナに似合うのは、黄色かオレンジのガーベラなのだが――、別の花にするか、別の花屋へ行ってみるか。花を勧める売り子の声に苛立ちが混じる程悩んだ末、グレッチェンは黄色と薄桃色のバラを二本ずつ購入した。
バラの小さな花束と紙袋を抱え直すと、グレッチェンは市場の喧騒から足早に抜け出し、歓楽街があるセントラル地区へと足を向ける。ヨーク橋からセントラル地区まで徒歩でおよそ約四十分。薬屋の裏口の前に立つ頃には、正午をとっくに回っていた。
裏口に取り付けられた、錆が浮いてないドアノッカーで三回扉を叩く。四回目を叩く前に扉が開いた。
「……おはよう、ございます」
「おはよう……って、そんな、あからさまに驚かなくても……」
完璧に身支度を済ませ、今日の天気に負けない爽やかな笑顔で出迎えてくれたシャロンに、グレッチェンの目が思わず丸くなる。
「どうしましょう……。午後からお墓参りなのに、雨が降るかもしれないなんて」
「君ねぇ、私だってたまには」
「冗談です。本気で思っていません。あぁ、お花を買いに行くついでに、サンドウィッチとマフィンを買ってきました。出掛ける前に紅茶と一緒に頂きましょう」
「ありがとう。ぜひそうしようか。花束は私が預かるよ」
「ありがとうございます」
シャロンに花束だけ渡すと、紙袋を手にグレッチェンは紅茶を淹れる準備を始めた。
(2)
風が強くなった気がする。墓所をぐるり囲む、鬱蒼と生い茂る木々の枝葉の揺れ、葉擦れの音が少し大きくなった。
教会と同じ敷地内にも拘わらず、樹々の向こう側にある聖堂は礼拝に訪れる人の声、気配が
彼女の足元――、真っ赤なバラの花束を添えた十字架の白い墓石に刻まれているのは、最も深い畏敬と愛情を抱いていた両親の名前。高級娼館に居た頃は当然、王都に移住した後も、更にはこの街に戻ってきてからも、定期的な墓参はミルドレッドにとって欠かせない習慣だった。
保守党議員の父が選挙時の不法買収疑惑で失脚したのは、ミルドレッドが十六の時だった。おそらく『腐敗及び不法行為防止法』を利用した自由党の連中に嵌められたのだろう。父が汚職に手を染める人物でないのは、家族である母と自分が良く知っている。しかし、真実はどうあれ、ミルドレッドは女学校を退学、家族共々王都を追われ、この街へ移住した。
財産を切り崩す生活下に置いても、両親はミルドレッドに熱心な教育を施した。語学、歴史、ピアノ、マナー、ダンス……、それぞれ一流の家庭教師を雇い、ミルドレッドも両親の期待に応えるべく努力を惜しまなかった。両親が相次いで病に倒れなければ、少なくとも今現在の境遇に陥ることはなかった、かもしれない。
高級娼館の門は自ら出向いて叩いた。両親の死後、親戚が持ちかけてくる縁談の相手は、富はあれど元の身分はミルドレッドよりも随分下の成金ばかりでうんざりしたからだ。
その点、高級娼館は富だけでなく身分も自分に釣り合う相手と出会う可能性が高い。娼婦といっても社交場でのパートナー役、サロンでの接待など、身を売る機会よりも美貌と知識教養を駆使する機会の方が多い。
『どんな境遇に陥ろうと常に誇り高くいなさい』
幼い頃より両親に言い聞かされてきたし、常に自問してきた――、が。
「お父様、お母様。今の私は……」
誇り高いと言えるだろうか。否、言える筈がない。
どんな理由にせよ、自分は罪を犯した。否、それ以前に、悪魔の誘惑に乗ってしまった。
例え、我が身に降りかかる理不尽の嵐に打ちのめされ、心が壊れかけていたとしても。
三か月前、ハーロウと再会したのはこの墓所だった。
人目を避けるため、日没に乗じて両親の墓に訪れたミルドレッドは、三人組の墓泥棒が両親の墓を掘り起こそうとする現場に遭遇してしまった。恐怖よりも怒りが勝り、『今すぐ立ち去りなさい!』と怒鳴りつけたところ、その内の一人がシャベルを振り上げて襲いかかってきた。次の瞬間、賊は短く呻き、いきなり地に倒れ伏した。賊の手からシャベルが滑り落ち、ミルドレッドのドレスの裾を僅かに汚した。
ミルドレッドは訳も分からず立ち竦んでいたが、それ以上に残りの墓泥棒達はガチガチに固まり、薄闇の中でも分かる程震えていた。
「レディを傷つけようなどもっての外です。そのような恥知らずな粗忽者など、我が党には不要。
近くの草陰ががさがさ揺れ動き、黒い外套のフードを深く被った男(毒針を飛ばしたのは彼なのか)と、ミルドレッドがよく見知った男が姿を現した。
「あぁ、折角のドレスが破けているではありませんか!大変申し訳ございません。お詫びに、代わりを用意いたしますので、どうぞ私の屋敷へいらしてください」
いくら昔の顧客であっても、普段のミルドレッドあれば簡単に男性の邸宅へ赴くような、短慮かつ危険な行動に出なかっただろう。だが、何もかもに疲れきっていたミルドレッドは、自分でも驚く程すんなりとハーロウの言葉に従っていた。
そうして、二人で企てたケイトリン・アンドリュースの誘拐事件。
家を留守がちなセオドア、家事をまともに取り仕切れないアンの無能さゆえに、アンドリュース邸の使用人の入れ代わりは激しく、常に不足している。ハーロウは使用人募集に乗じて数名のクロムウェル党員をアンドリュース邸に送り込んだ。
また、アンは産後夜間の咳喘息が悪化し、一度発作を発症させるとミルドレッドを呼び出しては一晩中傍にいさせた。ミルドレッドが休暇等で呼び出しに応じれない時は、使用人総出で看病、もしくは付随する役目にあたっていた。ただでさえ使用人不足の状態、自然と屋敷の警備は手薄となる。ミルドレッドとハーロウはそこに目をつけた。
まず、ミルドレッドは一足先に王都を出奔。かつてハーロウが治めていた町(これがまた、王都の隣領とは思えぬ田舎)で、子爵家の別邸にハーロウと共に身を寄せた。すると、翌日の夜明けが訪れる前には赤ん坊を盗み出した党員達が彼女達の元へ戻ってきた。それから、ハーロウが用意した馬車でこの街まで移動し――、今に至る。
日が翳り始めた。強さを増した風の音、次いで、固い地面と、地面に散らばる枝葉の上を歩く足音が近づいてくる。ポキリ、踏みしめた小枝が折れる音につられて振り返る。
「あなた……」
近くに立ち止まった人物の姿を確認した途端、言葉を失った。
それは黄色と薄桃色の小さなバラの花束抱えた、少年の格好をした少女も同様だった。
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