第67話 Back To Black(8)

 ――時同じ頃――


 この街の一等地に立ち並ぶ高級住宅の一軒にて、グレッチェンと同じく身を震わせて新聞に目を通す者がいた。ただし、驚愕で震えていたグレッチェンとは違い、の場合は身の内からふつふつ湧き起こる強い怒りに打ち震えていた。


「何よ、これ……!」


 雑巾を絞るように(雑巾など生まれてこのかた一度も触れたことなどないが)新聞をぐしゃぐしゃと両手で握り潰す。その際、右手の人差し指と親指の間を紙の端で軽く傷つけてしまった。

 白絹の手に残る小さな切傷、薄く滲む血。以前ならば痕が残ると苦にしたが、今の自分にはどうでもいい些末事でしかない。


 事件が明るみに出るのも時間の問題、赤ん坊の写真が新聞に掲載されるのも想定の内。

 しかし、よりによって、自分の姿まで映る家族写真を使用するなんて!


「困ったことになってきましたねぇ」


 背後から呼びかけてきたのは、仕立ての良いフロックコートにシルクハットを纏う細身の男で、帽子の隙間から金茶色の髪が覗いている。身なりの良さや取りすました口調と裏腹に、爬虫類を彷彿させる顔立ちは冷淡かつ狡猾そうだった。


「アルバーン子爵」

「元子爵ですよ、ミルドレッドさん。何度も言いますが、私のことはハーロウとお呼びいただければ」


 ハーロウは、青を基調とした唐草模様のペルシャ絨毯を踏みしめ、ミルドレッドに近づいていく。薄い唇を横へ拡げ、ニィッと嗤う様は獲物を見つけた蛇に似ている。

 三か月前、偶然の再会を果たし、彼の本名を始めとする真実の姿を知った今でも、この男の肚の内は図り難い。


 高級娼婦時代、ハーロウはセオドア・アンドリュースと並ぶかつての常連客だった。ただし、当時の彼は名前と身分を偽って彼女の高級娼館へ出入りしていた。

 犯罪集団クロムウェル党の頭目であるハーロウと、歓楽街を裏で牛耳るに留まらず、ファインズ男爵家の密命を受け暗躍するサリンジャー一家は謂わば天敵同士。天敵が経営する場所へわざわざ足を運んでいたのは、おそらく何らかの企みがあってのことだったろう。

 事実、ある時から突然ハーロウの足は途絶えた。常連客が一人減ったところで、他にも大勢上客を抱えていたミルドレッドは特に気にもならなかったけれど。今なら理由を訊けるかもしれないが、彼自身に興味はないので訊こうとすら思わない。

 その程度の存在でしかなかった彼と、まさか、偶然の再会がきっかけで共謀し、アンドリュース夫妻の愛娘ケイトリンを誘拐する羽目に陥るとは。


 でも、悪いのは全てアンドリュース夫妻だ。厳密に言えば、妻のアンの、善意の皮を被せた無知と無神経が原因だ。

 悪意なき純然たる善意という名の鞭の前では、セオドアの無神経さなどいっそ微笑ましいとすら思えてくる。


 アンは、金で爵位を得た宝石商の娘で、その出自通り、頭の中まで宝石のようにきらきら輝いている、大変おめでたい人間だった。まだ十五歳の若さとはいえ、自分が同じ年の頃はもっと世の中や人間というものを知っていたのに。

『航海士という職業上、家を空けがちな夫を持つ家庭教師』という偽りの素性を信じ込み、この三年間、半ば依存気味な信頼を寄せていたどころか、半年先にミルドレッドがセオドアの子を身籠った時も微塵も疑わなかった。さすがに何人かの使用人からは疑いの目を向けられていたが、誰もアンに忠告する者はいなかった。

 素直さだけが取り柄、甘い菓子と綺麗な衣装、宝石にしか興味がなく、頭を使うのが苦手なアンは女主人として余りにも頼りなく、ミルドレッドの手を借りなければこの屋敷が回っていかないことを知っているからだ。身体も強くなく子ができにくいかもしれない、と医者からも宣告されており、セオドアからは『このままアンに子ができなければ、君の子を我が家の養子に迎えるつもりだ。アンも君の子なら受け入れてくれる筈』だと打ち明けられていた。


 なのに――、臨月を迎える頃になってアンの懐妊を報されると共に、ミルドレッドの子は救貧院送りが決定してしまった。その時、セオドアに言われた言葉は一生忘れない。


『この子は生を受ける時期が悪かっただけ。次に子ができた時こそ、我が家へ養子に迎えよう。そうだな、その時は夫は海難事故死したことにしようか。そうすれば、女手ひとつで育てる自信がなかったから、と理由付けができる』


『今現在腹に宿る子に適用してもいいではないか』と訴えたが、初めての妊娠で不安定なアンに負担をかけたくないの一点張りで認めてもらえず。後にミルドレッドが産んだ男児はすぐに彼女から引き離され、救貧院へ送られた。周囲には死産だったことにして。


 利用できない子などいらない。私には必要ない。


 必死に自らに言い聞かせ、(妊娠中のアンを不安がらせないため)アンドリュース家の屋敷へ赴く時以外は喪服を纏って過ごす。一番苦痛だったのは、アンから聞かされる胎児の成長について。

 ふくよかな頬と体型は妊娠によって更に膨らみ、弛みが増した顎。それらを嬉しそうに揺らしながら、またお腹が大きくなっただの、今お腹を蹴っ飛ばしただの、いちいち報告してくれなくてもいい。腹を触ってみろと促された時など内なる憤りで卒倒しそうだった。

 育児に関する質問攻めまでされなかったのだけは心底ホッとしたものだ。現実的な話に興味がない質で(いざとなったら、乳母ナニーを雇って丸投げするつもりだろう)本当に良かった。


 だが、歪で屈辱的な立場に甘んじ続けるのも限界を迎えつつあった。


 最初の限界は、我が子の近況を知りたくて訪問した救貧院で、その死を報された時。

 次なる限界は、アンが無事にケイトリンを出産した時。

 最後の限界は――、アンに『実は我が子が死産だった』と打ち明けた(死産は嘘だが、我が子を亡くしたことには変わりないのは嘘ではない)後、大層彼女が、小さな目を潤ませて告げた言葉だった。


『じゃあ、ケイトリンを抱かせてあげる!今だけ特別に、ケイトリンを貴女の子だと思っていいから。そうだわ!記念に写真も撮りましょ??ちょうど旦那さまもいらっしゃるし、家族写真ということで!誰か、今すぐ写真屋さんを呼んできてちょうだい!今すぐ、今すぐよ!』





 ……あの時の忌まわしい写真を再び目にするなんて――!





「音楽の才能以外は凡庸以下のアンドリュース氏なら、我が子と被疑者が揃って写っているからという安直な理由だけでこの写真を掲載したかもしれません。内輪の恥を晒される危険性など考えもせず。ですが、それにしては行動が少々迅速な気がしますが……」


 独りごちるハーロウの声で、忌々しいばかりの回想から現実に引き戻された。


「女誑しと評判の薬屋に赤ん坊を置いてきたというのに、早速サリンジャー兄弟に知られてしまうとは。レディ・ミルドレッド、貴女は薬屋とサリンジャー兄弟との繋がりを本当に知らなかったんですか??」

「だって……、薬屋店主と兄は顔を合わせば憎まれ口叩き合っていて犬猿の仲だし、弟なんて彼の立場的にも薬屋と何ら関係ないと思っていたのよ」

「貴女は己より目下めしたと決めつけた人間への興味関心が低すぎるのでしょう」

「あら、『あの薬屋の黒い噂が真実ならば警察に届けたりはしないだろう。また、本当に自分の子だと信じて育てる可能性も低いだろうし、救貧院に預ける可能性が一番高い。そしたら、あの赤ん坊を貴女が亡くした子と同じ目に遭わせられます。万が一、警察に届け出てしまった場合、我が党員を警察に侵入させて赤ん坊を奪還、その足でヨーク河へ沈めましょう』と貴方が仰ったのではありませんこと??一番高い筈の可能性が盛大に外れたでしょう??」

「私の憶測が外れたのは申し訳ないことです。ただ、お言葉ですが、貴女お一人で事を実行した場合、ここまでにすら至らないのではないかと。我々の協力あってこそ成し遂げられたのだと、ゆめゆめお忘れなきよう」


 唇を噛んで押し黙るミルドレッドをくつくつと笑うハーロウが憎らしくて堪らないが、彼の機嫌を損ねるのは得策ではない


「赤ん坊はおそらくサリンジャー一家の手の内でしょう。サリンジャー一家を通してファインズ男爵が絡んでくるかもしれません。そうなる前に」


 新たに策を講じねば。


 ミルドレッドとハーロウの視線がようやく重なり合った。

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