第66話 Back To Black(7)

(1) 


 広い天幕の中、すり鉢状になった客席は満席だった。

 客席に囲まれた底面の舞台へ二本の青龍刀をそれぞれの手に握り、剣舞を舞いながら躍り出る。漢服に似せた衣裳の裾が流麗な動きに合わせて宙に靡く。

 舞台の中央まで出たところで剣舞を止め、青龍刀を頭上高く放り投げる。刀はくるくると落下、どすり、舞台に突き刺さった。それが合図かのように、ピエロが支える天井まで届く長い竹棒をトントン、トンと駆け上がり、一足飛びで天井近くに貼られた綱の上に飛び乗った。

 落下防止の命綱、落下を受け止める緩衝物もなし。落ちたら最後、良くて骨折、最悪死亡。

 よろけることなく涼しい顔で綱を渡る自分よりも、観客の方が落下事故を恐れている。恐怖を煽るように、綱の上で飛んだり跳ねたりを繰り返してみせれば、悲鳴は益々大きくなる。


 怪我も痛みもちっとも怖くなどない。

 死も、望まれずして生を受けた自分には一種の憧憬すら感じる。


『本国では失敗したが、東方の租界なら移民でも成功できるかもしれない』

 そんな甘い考えだったから、妻が阿片中毒と化したあげく現地の阿片売人に寝取られたんじゃないか。おまけに不義の子まで儲けられて。しかも、どう取り繕っても混血児にしか見えない子供を。

 養子だという苦しい嘘は数年と持たず、完全に物心つく頃にはサーカス団にいた。某国訛りの言葉は、夫妻と同郷である団長の影響だ。


 綱の上で逆立ちしながら客席をぐるり見渡す。一番見晴らしのいい特等席の老紳士に着地(綱の上だが)と同時に秋波を送りつける。金回りの良さそうな客を終演後に、金を受け取るのも仕事の内。このサーカス団で働くにあたって、見目の良いのは男女問わず課される仕事。でなければ、とっくに解体されている。反抗する者なんて一人もいない。皆、路頭に迷いたくないから。客の取り合いなんて日常茶飯事、本業よりもそちらに力を入れている者もいたくらい。常にギスギスした空気を纏っていた。

 新しい団員と称して連れて来られる、何も知らない幼い子供の世話は嫌いじゃなかった。知らないから、東方の血を引く自分を見下しも憐れみもしない点で大人との関わりより楽だったし。今でも大人より子供と接する方が正直好きだ。

 そうかと言って、別段大人が嫌いだった訳じゃない。嫌いというより無関心。無関心だから何を言われてもされても傷ついたりしない。大人には一切の期待を抱いていなかった。


 そう、あの人ディヴィッドに出会うまでは――










(2)


 時計の針は先程確認した時からたったの五分しか進んでいなかった。

 これで一体何回目だろう。シャロン達が店を飛び出してからというもの、グレッチェンは数分おきに壁時計で時間を確認しては一人溜め息をつく。

 店内の掃除や商品の在庫確認等、やるべきことはあるけれど。

 シャロン達は無事に男を捕獲できたのか、取り逃がしてしまったのか。

 どちらにせよ、怪我を負ったり更なる厄介事が降りかかってなければいいけれど――、と、心配が尽きず、ただカウンターの中で立ち尽くし、時間を確認する以外手につきそうにない。


「ねぇ」


 そわそわと落ち着かない気持ちを、カウンターの木目を見つめてやり過ごしていると、ふいにジョゼに呼ばれた。我に返って、彼が佇む壁際へ視線を巡らせる。


「立ちっ放しでいるの、いい加減疲れてきたんだけど」

「あ、ごめんなさい」


 普通に長時間立ちっ放しでも疲れるのに、赤ん坊を抱いた状態では尚更だっただろう。

 不測の事態の連続ですっかり失念していた。カウンターの下に置いてある丸椅子を一つ抱え、ジョゼの元へ運んでいく。


「どうぞ」

「ありがとう」


 壁に沿って椅子を置くと、ジョゼは腰を下ろした――、と見せかけて、いきなりグレッチェンを壁際へ押しつけてきた。その弾みで持ってきた椅子は倒れ、床に転がった。

 片手で赤ん坊を抱き、もう片方を壁につけて見下ろすジョゼの視線の位置はグレッチェンより少し高いだけ。細く切れ上がった妖美な目線が間近に迫る。


「ディヴィッドさんのお気に入りっていうからどんな娘かと思ってたけど、姿形なりはともかく確かに綺麗な子だね。理知的なのに儚げで、憂いを帯びた雰囲気なんかがそそられる」


 息がかかりそうな程顔を近づけてくるジョゼに対し、グレッチェンは顔を背けるどころか眉一つ動かさず毅然と見返した。


「逃げないんだ。いかにも潔癖そうだから嫌がったり抵抗するかと思ったけど」

「私が騒ぎ立てれば赤ちゃんが起きてしまいます。それに」


 ジョゼとグレッチェンの長い睫毛が触れ合う。あと少しで互いの唇が触れてしまいそうだが、後ろ手で壁に手をつきながら冷たく告げる。


「したければどうぞ。あとで貴方自身がどうなっても構わないのでしたら」


 時計の秒針と赤ん坊の寝息しか聞こえない静寂の中、氷の薄灰と深淵の漆黒が静かにぶつかり合う。


 いつまでこの緊張状態が続くのか、と思われた矢先、ジョゼはグレッチェンからすっと身を離し、丸椅子の脚に爪先を引っ掛けて元の位置に置き直した。椅子に腰を下ろし、赤ん坊の身体を優しく揺らすジョゼの頭頂部を釈然としない様子で見下ろしていると。


「悪いね、ほんの冗談さ。本気にしないでよ。ディヴィッドさんのお気に入りをちょっと揶揄ってみたかっただけ。それに、僕は男にも女にもその手の興味を抱かない質だから」

「え……??」

「意外??もしかして、男相手に身体売るから男が好きとでも??」

「い、いえ、そんな風には……」


 全く思っていなかった、と言えば、嘘になる。

 ディヴィッドへの思慕の根底には少なからず恋慕の情が介在するかもしれない、と。


「別にいいよ、慣れてるから気にしない」

「ごめんなさい」

「やめて、謝ることじゃない。自分が扱いづらい人間っていう自覚は充分ある」

「…………」

「だから……、って、何、その顔」


 苛立ち混じりに横目でグレッチェンをちらと見上げたジョゼが、徐に向き直ってきた。


「何もそんな深刻な顔で話に聞き入らなくてもいいのに」

「私は至って普通にお話を聞いていただけですが……」

「あんた、本当に生真面目なんだね‥…」

「別に、普通、じゃないですか??」

「いや……、とにかく、本当、揶揄って悪かったよ、うん」


 呆れ半分で一人納得するジョゼをきょとんと眺めながら、真面目で何か不都合でも??と訊き返したくなった。しかし、不毛な諍いに発展するかもと思い直し、黙っておいた。


 早くシャロン達が帰ってきてくれればいいのに。

 ただ待つだけの手持ち無沙汰な時間に限って過ぎるのが遅い。再びカウンターの中に戻り、机上の隅に置いてあった今朝の新聞を何気に手に取る。

 一面、次いで三面記事の見出しを目にした時、「……えっ」と漏らした後、絶句した。


『作曲家セオドア・アンドリュース氏の長女誘拐される』

『事件発生数日前に家庭教師も失踪。誘拐事件と関連有りか』


 新聞を持つ手が震えている。見出しと共に大きく掲載された写真。

 中肉中背、取り立てて目立った顔立ちではないが、神経質そうに僅かに歪められた口元がやけに目につく夫と、まだ少女といっていい年頃の、ぽかんと口を半開きにさせたふくよかな体型の妻。

記事曰く『妻の家庭教師』だという、二人に挟まれる形でウィンザーチェアに座る、豊かな黒髪にはっきりした目鼻立ちの美しい妙齢女性。間違いない、ミルドレッドだ。


 そして、『家庭教師』の腕に抱かれているのは、たった今、ジョゼの腕で静かに眠っている赤ん坊と瓜二つだった。

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