第65話 Back To Black(6)

(1) 


 運命の相手が彼だと知った時、正直な話、少しがっかりした。

 ファインズ男爵家と婚姻を結んで没落を免れたとはいえ、辺鄙な田舎が領地の伯爵家出身。しかも次男。作曲家だなんて水商売と同等。才能が尽き、人気が凋落すれば一環の終わり。

 それでも、金に物を言わせる品も教養もない成金風情よりは余程マシだった。

 だから、彼に請われるがまま王都へ、かつての故郷といえる場所へ舞い戻った。


『すまない、君と結婚できなくなった……』

『代わりに、貴方の出資者の愛娘と婚約せざるを得なくなったのだもの。仕方ないわ』


 落ち着いた態度を崩すことなく紅茶を飲む私に対し、向かい合う彼の方が泣きそうな顔をしている。私が絆されるとでも思っているのだろうか。表情、口調こそ絶望に打ちひしがれているが、直截な言葉自体は私の心臓を深く抉るというのに。


『そう、仕方なかったんだ……。でも、僕が愛しているのは君だけなんだ』

『当然よ。たった十五の小娘なんて貴方にとって退屈でしかないでしょう??』

『退屈なだけならまだいい。随分と甘やかされて育ってきた娘だからか、年齢以上に幼く頼りない。妻としての役目、家を取り仕切られるのか不安でしかない。だから』

『だから??』

『彼女の家庭教師、指南役という名目で屋敷に入ってくれないか??君は夫ある身という振りをして』


 差し出された天鵞絨の小箱に鎮座する指輪は私の薬指にぴたりとはまった。

 本来の用途から大きく逸脱した理由のせいか、輝きが鈍いように思えた。












 ハンプティ・ダンプティ、もとい、中年男は、薬屋のすぐ目の前の通りを左に向かって真っ直ぐ駆け出した。だぶついた背中、尻の肉が動く度揺れるのにハルは思わず鼻先に皺を寄せる。

 どうせ追いかけるなら女の尻の方が、同じ揺れるでも豊満な胸元眺める方が余程良い。多分、自分の前方を走るディヴィッド、後方にいる筈のシャロンも同感だろう。


 正午を一時間程過ぎた現在、少しずつ通りの店が開き始めている。

 昼で仕事を終わらせた労働者のための食堂兼パプ、コーヒーハウス、中には暇と金を持て余した富裕層のためのカジノやサロン等々。昼前や正午はまばらだった人通りもぽつぽつ増え始め、馬車も行き交っている。

 白昼堂々、みすぼらしい太った中年男を長身痩躯の黒スーツ、元ポン引きの酒場の店主、身なりの良い紳士が息せき切って追い回す様は異様というか、滑稽というか。歩道を行き交う人々の視線は一斉に彼らに集まった。

 彼らが走り過ぎる瞬間、馬車の上では御者が興奮する馬を鎮めながら悪態をつき、オレンジとレモネードの箱を乗せた荷車を引く売り子は邪魔だ!あぶねぇだろ!!と怒鳴り散らす。

 ハンプティ・ダンプティはよろけながら走る割に人混みを難無く擦り抜け、車道と歩道の境で等間隔に並ぶガス灯をするする蛇行していく。


「んだよー!あいつ!!デブのくせになんで足が速いんだよぉ?!つか、ハロルド!おせーよ!!」

「うるせぇな!トシなんだよ、トシ!!」

「昔より太ったから身体が重いんじゃねーのかぁ?!」

「てめぇ、あとで覚えておけよ……!!」


 本当はもっと毒づいてやりたいが、無駄に喋れば喋った分だけ体力も無駄に奪われてしまう。

 ぜぇぜぇ大きく上下する肩、痛む肺、気を抜くと走る速度がみるみる落ちていく脚を叱咤し、ひたすら走り続ける。認めたくないが、確かに昔より身体が重いし鈍った気がする。

 まだ幼かったグレッチェンを小脇に抱え、銃を撃ちながら疾走するなんて芸当、今同じことをやれと言われたらできる自信は、少しばかり、ない気が、する。そもそもあれは火事場の力技に近かったけれど。


 思い出が蘇ると共に、銃か、と思いつく。が、すぐに打ち消した。人通りの多い通りで転がる玉子よろしく素早い標的を、満身創痍で疾走しながら命中させるのは至難の業。自分やシャロンはもちろん、ディヴィッドですら容易にできることではない。

 せめて標的を追い込める路地があればいいが、歓楽街でも有数の大通りだからか建物と建物の間隔が狭く、路地らしい路地が見当たらない。ないこともないのだが、子供や華奢な女性なら通れても大抵の成人男性は通行不可な細く狭いものだった。肥え太ったハンプティ・ダンプティなど当然通行不可だし、追い込む側のハル達も(太ってなくとも)厳しい。

 更にひたすら真っ直ぐ行けば、歓楽街の目抜き通りに達する。その手前に一本だけ少し広い路地があったような……。しかし、目抜き通りに到着するまで少なくとも4000ヤード近く走り続けなければならない。途端にどっと疲れが押し寄せる。


 いや、無理だろ、これ。珍しくシャロンに同意を求めたくなって後ろを振り返る。

 後方を走っていた筈のシャロンは――、忽然と姿を消していた。


「……あの野郎っ!!」

「きゃあっ」


 憤然と叫んだ瞬間、差し掛かったコーヒーハウスから出てきた女性とぶつかってしまった。

 よろけた女性が転ばないよう、咄嗟に腕を掴み取る。抱えていたらしき珈琲の袋が石畳の歩道に散乱した。随分先を走るディヴィッドの「何やってんだよ!!」という怒声混じりの叫びが耳に届く。


「悪い、大丈夫か?!」

「いえ、こっちこそ!」

「本当は袋を拾うのを手伝ってやりたいが、生憎先を急いでてな。この店の女給だろ??詫びと言っちゃなんだが、今度珈琲を飲みに行くから」


 早口で一方的にまくし立てると、ぽかんと立ち尽くす女性を置いてハルは再び走り始めた。鼓動が煩いように思うのは焦りのせいだけじゃない。


「……嘘だろ……」


 まじまじと確認した訳でもないのに。さっと一目見て動揺するくらいには似ていた。

 まさか、彼が失った太陽アドリアナに似た女性が現われるなんて。


「ハロルド!!」

「いちいちうるせぇ!」


 ハルの遅れを咎めるディヴィッドを一喝すると、頭を軽く振る。今やるべきことに集中しろ、と念じながら。









(2)


 往来に増える一方の通行人、馬車に遮られつつ、標的との間隔がどんどん開きつつ、どうにか見失わずに目抜き通りに近づいた。すると、案の定、ハンプティ・ダンプティは手前の路地へ入り込んだ。

 急がなければ、路地を抜けて別の通りへ逃げてしまう。荒い呼吸と軋む全身に鞭を打ち、ハルとディビッドは一気に速度を上げる。

 僅差で先に路地へ入ったディヴィッドの足音が止む。訝しみながら、続いて路地に入ったハルも足を止めた。止めざるを得なかった。


 建物の影に覆われた薄暗い路地、鼠が這い回っていそうな不潔でじめりと湿った地面にハンプティ・ダンプティは倒れていた。上等な背広で頭を覆い隠され、んー!んー!!と声にならない叫びをあげて極太の手足でばたばた宙をかいている。

 振り落とされないよう背中にしがみつき、巨体を地に抑え込んでいたのは、何と、シャロンだった。


「マクレガーの旦那ぁ!」

「シャロン、お前、逃げたんじゃないのか??」

「失敬な。馬車で先回りして待ち伏せしていたんだ。この大通りを左へ真っ直ぐ逃げたなら抜け道はここしかない。読みが当たるかは一か八かの賭けだったが……」


 悠々自適に馬車移動したであろうに、抵抗する男を捕獲するのに体力を要したせいか、シャロンの息はすっかり上がっている。癖のない前髪も乱れ、暑い時期でもないのに額からぽつぽつ汗が滴り落ちている。


「お前にしちゃあ上出来だ。よくやった」

 膝をついて男の頭を強く地面に押しつければ、声と手足の動きが弱まった。

「今度一杯奢ってもらおうか」

「グレッチェンの分なら考えてやる」

「……グレッチェンには酒じゃなくてレモネードにしてくれ」

「手出す機会をわざわざ作ってやろうってんだ、むしろ感謝しろよ」

「あの子はそういう対象じゃない」

「大事が過ぎて手出せないってやつか??このヘタレめ」

「あのさぁー、会話ぶった切って悪ぃけど、旦那とハロルドが押し潰してるデブを吊るし上げるの手伝ってくれないー??このままじゃ話聞き出す前に気絶されちまうぜぇ??」

「だとよ。おら、さっさと降りろ。ヘタレ紳士」


 シッシッと手を振って雑にあしらうハルを睨みながらもシャロンは素直に従った。男が起き上がるよりも早く、ディヴィッドとハル、二人がかりで巨体を持ち上げ、ひび割れた黄煉瓦の壁に押し付ける。シャロンの背広を頭から取り払えば、青褪めた顔で目を白黒させている。


「オ、オレは、ただ!ただ、あの赤ん坊の処遇を、薬屋がどうするのか、見届けろ、って……!警察か救貧院に届けるのか、誰か知り合いを頼るのか……、もしかしたら、自分で預かるのか……って!見届けたら教えろって、頼まれただけだよ……!!」

「誰にぃ??」

「そしたら、ま、まさか、サリンジャー兄弟が絡んでくるなんて……!」

「質問に答えろってば、誰に頼まれたー??だ・れ・にぃー??」

 壁に両手をついて男を見下ろすディヴィッドの声に苛立ちが籠っていく。締まりのない表情は変わらないが、ハルと同じ金色がかった濃緑の双眸は険しい。

「し、知らねぇ!」

「はぁああ??ナニナニ、姿が見えない幽霊にでも頼まれた訳ー??ほーお、そりゃすっげーわぁ!!」

「ひんっ!!」

 右手を壁から離し、ディヴィッドは男の胸ぐらを掴んで締め上げる。情けない悲鳴にへらりとした笑顔で応える。

「大事なことだから二度訊くねぇー??だ・れ・に・た・の・ま・れ・た??」

「ほ、ほんとうに、しら、知らない、んだ!!『クック・ロビン』にいた客の一人から、こういう仕事があるけどどうだ、って持ちかけられただけだよ!!そいつは仲介役だし、依頼人について俺は何にも知らないんだよ!!」

「クック・ロビンだってぇ?!」


 ディヴィッドは男を締め上げるのやめて、ひどく渋い顔でハルを振り返った。おそらく、ハルも似たような顔をしていただろう。


『クック・ロビン』とは半年程前にできた賭博場を兼ねた酒場なのだが、その実、富裕層が仲介人を通し、表沙汰にできない不祥事等を貧しい労働者を利用して闇に葬る、謂わば、裏社会の情報交換取引所だった。

 そんな場所は他にもいくらでもあるし(ある意味、薬屋のマクレガーだって似たようなものだ)、明らかにこの街にとって害悪に成り得て、ファインズ男爵家やサリンジャー一家を敵に回さない限りは問題にすらならない。そう、害悪にならなければ。


『クック・ロビン』が問題視される原因、それは――

 近年、この街にはびこる凶悪犯罪の多くに関わり、サリンジャー一家が仇敵とみなす犯罪集団クロムウェル党の繋がりだと噂されているからだった。

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