第64話 Back To Black(5)

 静まり返った店内に壁時計と赤ん坊の寝息の音がやけに大きく響く。赤ん坊の寝顔にミルドレッドの面影が残っていないか、食い入るように見つめてみる。

 髪色はミルドレッドと違って薄い金だが、成長と共に色素が変化するので余りあてにはならない。閉じた瞼に隠された瞳はミルドレッドと同じ薄青、あと眉目の間が少し狭いような気がする。

 赤ん坊の性別さえ判別できないグレッチェンの見立てでは少々心許ない気がするし、思い込みによる錯覚かもしれないが。


「ミルドレッドが身請けされた先は確か、アンドリュース伯爵家当主の弟……だったか??」

「うん、そうそう。ハロルドよく覚えてるねぇー」

「覚えているも何も、そりゃ……、この街の当主夫人の弟ダドリーの義弟でもあるしな」

「そうそう、貴族の次男坊なんてスペアだし案外そこまで金持ちって訳でもないけど、セオドア・アンドリュースは例外だったなぁ。男爵に上手く取り入ってたし、作曲家で成功してさぁ。女の趣味だけはどうかと思ったけどー??ミルドレッド連れて王都へ行っちまった時はもう、店としてはちと残念だったねぇ、一番の上客と売れっ子がいなくなっちまったしー。ま、ともかくもこのガキんちょはしばらくうちで預かることにするわー。んで、身元もちょちょいと調べてみるわ!」

「……あ、お世話かけますけど、よろしくお願いします」

 ディヴィッドの呼びかけで一気に現実へ引き戻される。慌てて頭を下げようとして「あー、いいって、いいってぇ。かたっくるしいのはなしだぜぇ??」と制されてしまった。

「その代わり」


 ディヴィッドは締まりのない顔を更にだらしなく緩め、グレッチェンの両手を握りしめてきた。がっちり大きな両掌に包まれて迫られたら、振り払おうにも振り払えない。


「今度俺と逢引デートでもしないー??いでっ!!」

「調子に乗るんじゃねぇ」

「ちょ、ハロルド、何もケツに蹴り入れなくてもいいじゃんよぉ?!って、お嬢ちゃん、ハンケチーフで手拭くのやめてぇ??」

「いえ、一応薬品類を扱う身ですから、万が一の病原菌対策といいますか」

「ちょ、それ、益々傷つくんだけどさー……」

「シャロンさんも。どさくさに紛れて触らないでください」

 安い綿製品ながら丁寧にアイロンをかけたハンカチを折り畳みつつ、肩を抱くシャロンを横目で睨む。

「なっ、私は、君を庇おうとしただけで……!」

「触らないでください」

「お前ら、いつまで茶番続けるつもり……」


 一部始終を生温い目で傍観していたハルの、金色がかった濃緑の双眸がスッ……と眇められる。グレッチェンの痛烈な一言に加え、涙目でハルに蹴られた尻を擦っていたディヴィッドの表情も真顔に切り替わった。

 どうしたのか、と尋ねかけたシャロンを、ディヴィッドは自身の唇に人差し指を当てて黙らせる。意味深な仕草に全員の警戒心が跳ね上がり、自然と息を潜めた。ディヴィッドとハルの視線は玄関扉の外へと向けられている。

 ディヴィッドは足音を立てずに一歩、二歩……、速やかに扉の前に進み出ると勢い良く扉を開け放った。


「いらっしゃーい」


 玄関から店内に倒れ込んできた中年男の襟首を、ディヴィッドはへらへら笑いながら掴み上げた。低い背丈の割に丸々と肥え太った身体はハンプティ・ダンプティを想起させる。その肥満男を、針金のような長身痩躯のディヴィッドがいとも簡単そうに片手のみで動きを封じている。


「ねぇねぇ、マクレガーの旦那にお嬢ちゃん、扉に張りついて会話盗み聞きしていたこのデブ、あんたらの知り合いかなんか??」

 シャロンとグレッチェンに男の顔が良く見えるよう、無理矢理上向かせる。

「いでででで!!オレは!!ここの薬屋へ、売り込みにきたんだよ!」

「売り込みー??でもさぁ、臨時休業の張り紙してあったよなぁ??」

「俺は字が読めねぇんだよ!」

「字読めなくったって看板が出てなくて張り紙してあればさぁ、大抵は休業してるって分かるんじゃないのー??それとも、気づけないくらい目が節穴なのか頭がわりぃのかぁ??」

「うるっせえな!そうだとしても、おめぇにゃあ関係ねーだろ?!」


 男はもがきにもがいて自身の襟首を掴むディヴィッドの手からどうにか逃れ、眉を潜めて眺めていたシャロンにすり寄っていく。男が一歩ずつ近づくごとに、シャロンは半歩ずつさりげなく下がる。


「そんなことよりさぁ、俺んとこで仕入れている新しい阿片チンキをこの店にも置いてくれないかねぇ??そこの身なりのいい紳士がここの店主だろ??従来の摂取量の半分で効果は二倍!!これさえあれば赤ん坊の夜泣きも長引く咳も一発で解決さね!」

「あのなぁ、オッサンよぉー」


 自らも最近三十路に突入した癖に人のことをオッサン呼ばわりするディヴィッドだったが、誰一人、ハルですら突っ込もうとしない。この薬屋にとっての禁句、『阿片』という言葉が飛び出したからだ。

 グレッチェンとハルが揃ってシャロンの顔色を窺う。二人の視線など全く意に介さず、シャロンはダークブラウンの双眸に深く冷たい憎悪を込めて男を見下げていた。視線で男を足元から氷漬けにした後、眉一つ動かさず粉砕しそうな非情ささえ漂わせている。

 ハルやディヴィッドも口を挟めない程の威圧感に男も怖気づいたのか、シャロンから数歩分後ずさった。男の体重で床がみしりと軋む。


「帰れ……」

「お帰りください。うちは阿片と名のつくものは一切取り扱っていません」

 殺気立つシャロンに代わり、グレッチェンが淡々と中年男に断りを入れた。無表情はそのままにシャロンはグレッチェンを振り返り、声もなく口を軽く開閉させた。

「そこをなんとか……」

「お断りします。申し訳ありませんが、今すぐお帰りください」


 シャロン同様、否、シャロンと違い、鼻上げ呼吸する魚みたいに男は口をパクパクさせ、間抜け面を晒していた。しかし、店主のシャロンではなく店員、しかも年若い娘(もしかしたら少年と思われているかもしれない)にぴしゃりと言われたのが気に入らなかったのだろう。

 媚び諂った笑みから一転、分厚い唇を舐めては大きく舌打ちをした。口汚い悪態をつくかと思われたが、男は特に言葉を発することなく、グレッチェン達に背を向けた。

 酷いがに股で扉へ進み出る――、かとと思いきや、いきなり男はジョゼ(と赤ん坊)に飛びかかっていった。一貫して人形じみた表情のジョゼの柳眉が、ほんの僅かに跳ね上がる。


 男の怒りの矛先が向かうのはグレッチェンだと予想していた男三人は意表を突かれ、シャロンはともかくハルとディヴィッドの動きが少しばかり遅れる。男の、上等なハムの塊みたいな太い腕がジョゼの膨らんだ長い袖に隠れた細腕へと伸びる。掴み取られる、まさに直前――、赤ん坊を抱いたまま、ジョゼは極太の腕にトン、と乗り上げた。


 え、と、再び間抜け面を晒し、動きを止めてしまった男の腕から肩へ、トントン、トン、軽やかに。やや高めに作られた天井、天井から下がる照明器具にぶつからないよう、中腰で反対側の肩、腕へと移動し乗り上げ、素早く床へ着地。唖然と、ぎこちなく振り返った男にジョゼは妖しげに微笑みかけた。


「はいよー、そこまでぇ!」

「おいこら、待てよ!!」


 ハルとディヴィッドの二人がかりで襟首を掴もうとする手を逃れ、男は扉をバン!と壁に叩きつけて開け放す。贅肉に覆われた身体とは思えぬ俊足で一目散に駆け去る後ろ姿に続き、ハルとディヴィッドも薬屋から飛び出していく。


「逃げたって無駄だっつーの!こちとら、追っかけっこは得意中の得意なの!!」

「おい、ディヴィッド、喋ってないでとっととあいつを追いかけやがれ!!シャロンも来い!!」

「わ、私もかね?!」

「ガキの面倒見てやるんだから、少しは」

「わかったわかった!!」

「ジョゼ!悪ぃが、俺達が戻ってくるまでグレッチェンとガキを頼むぞ!!」


 慌てて外へ駆けだすシャロンをグレッチェンは呆然と見送っていたが、シャロンまで追いかけっこに駆り出されたのならば、自分も続いた方が――、と、迷いが脳裏をちらと掠める。


「あんたは店に留まるべきじゃない??下手にしゃしゃり出たはいいけど、足手まといになる可能性も高いだろうし」


 あー、あぁー、と、弱々しい泣き声の間を縫うように、ぼそりと呟かれた低い声。声の主=壁際にもたれたジョゼが、グレッチェンを見ずに目を覚ました赤ん坊を再びあやしていた。

 内心ムッとする一方、追いかけるべきかと逸る気持ちを抑えつつ、結局、グレッチェンはジョゼに従い、男達の帰りを大人しく待つことに決めた。

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