第63話 Back To Black(4)

(1)


 娼婦と一口に言っても一般の娼館や売春宿で働く雇用娼婦、店には属さず個人で街頭に立つ街娼と、大まかに二種類に分かれる。また、同じ雇用娼婦でも貴族や成金など上流階級者と対等に会話できるだけの教養、作法を必要とされる高級娼婦から、梅毒や労咳に罹患してさえ搾取され続ける者と形態や格の違いは様々である。

 同じ娼婦でも置かれた境遇が天と地ほどの差がある彼女達の唯一の共通点、それは薬屋マクレガーの商品を贔屓にしていることである。(もちろん、大多数と言うだけで利用していない者もいるけれど)


 サリンジャー一家が経営する娼館は、男娼専門の店を含め歓楽街に三店舗存在し、そのうちの一店舗は上流階級者専門の高級娼館だった。(ちなみにラカンターに変わる前の、アダが属していた娼館も高級と謳っていたが、実際はそうでもなかった)

 その高級娼館に属する娼婦たちは、美貌は当然として、娼婦と呼ぶには憚られる程の知性、教養を兼ね備え、出自も中位中流以上の家柄の者が大半を占めていた。ミルドレッドはそこの一番人気の高級娼婦であり、薬屋マクレガーの常連客の一人でもあった。

 外出時は常に見張りも兼ねた警護が付き従い、少しの距離の移動でも専用馬車に乗る姿はまるで貴婦人のような彼女が入店すると、先に店にいた他の娼婦は格の違いに気圧されてそそくさに店を出て行くのもしばしば。

 だが、他の娼婦達が彼女を遠巻きにする理由は他にもあった。むしろ、そちらの理由が大きかったかもしれない。








「いいや??そんな話は露ほども聞いたことないねぇー」


 ジョゼの視線を受け流すかのように、ディヴィッドは大仰に肩を竦めた。すると、視線はディヴィッドの隣のハルへと移っていく。しかし、ハルも『知らない』と無言で頭を振った。


「出戻ってきたとしてもあの女のことだしぃ、歓楽街の人間、とくに俺達サリンジャー一家の息がかかった奴らにゃあ、絶対に知られないよう徹底しそうだけどねぇー」

「ディヴィッドさんの言う通りだとは思う。でも、彼女の性格上、市井に紛れて息を潜めるように地道に働くなんて、絶対考えもしないと思うよ??」

「街頭に立って身を売るなんて尚更しないだろうな。そうなる前にヨーク河に身投げでもしそうだ」

「いやいやいやー、わかってないねぇー、ハロルド。あの女のしたたかさを舐めちゃいけないぜぇ??新しいパトロン摑まえてうまいことやってるかもなぁー」

「じゃあ、なんでこういう事態が起きてるんだよ??」


 ジョゼの腕の中で寝息を立てる赤ん坊を見下ろし、今度こそハルは大きく溜め息を吐きだした。ハルに続き、ハル以外の全員のため息も一斉に吐き出される。

 一番深いため息を吐き出しつつも、シャロンへの疑惑が薄れたせいか、グレッチェンの顔色は少しだけ良くなっていた。

 だが、『ミルドレッド』という名を耳にしたせいで、苦い思い出が蘇ってもいた。








(2)


 グレッチェンが薬屋で働きはじめて一年程経った頃だったか。

 その日もシャロンは私室に籠って店に下りて来なかったので、グレッチェンだけで店番を――、昼間は店に訪れる客もまばらなので、別に一人でも特に問題はないのだが――、していた時だった。


 薬の在庫確認もとっくに終わり、暇を持て余してカウンターに立ったまま本を読んでいたところ、扉が開いた。

 素早く本をカウンターの隅へ置き、いらっしゃいませと声をかける。客は艶々と輝くブルネットの下ろし髪をふぁさりかきあげ、徐にグレッチェンに背を向けた。


 髪色に合わせた濃緑のバッスルドレスの仕立ての良さが、店内に漂う薬草と化学薬品が入り混じった臭いとまるでそぐわない。ついでに言えば、客が振り向いた先、扉の前で立つ黒スーツの屈強な男達の存在も異様である。


「ねぇ、どちらでも構わないわ。『お約束した時間より少し遅れて到着いたします』と、スペンサー卿へ電報打ってきてくれない??」


 深みをもつ、中音域の声で客の女性が淡々と男達に告げれば、そのうちの一人がさっと店を出ていく。女性はグレッチェンに背中を向けたまま尚も続ける。


「マクレガーさんはご不在なのかしらね??困ったわ、今すぐ水糊をいただきたいのに」

「生憎、店主は私事で少し立て込んでいまして、夕方以降しか店に下りてきません。ご希望の水糊でしたら、私がただちに用意いたします」

「よかった!店に下りてきていないだけでいるにはいるそうよ。先方に電報は打つし、下りてくるまで少し待ちましょう」

「ですから、店主は」

「早く下りてきてくださらないかしらねぇ。どこの馬の骨とも知れない者とは話にならないし」

「…………」


 女性はグレッチェンを無視しながらも、男達に話しかける体でグレッチェンにシャロンを呼びつけさせようとしている。


「……では、すぐに店主を呼んでまいります」


 話しにならないのはそちらでは、と言いたいところをぐっと飲み込み、カウンター奥の扉からシャロンの私室へ急ぐ。

 荒れ放題の部屋で当然の如く眠りこけていたシャロンに『ミルドレッドが来店している』と告げれば、即座に飛び起きてくれただけでなく、普段の三倍の速さで身支度を整えてグレッチェンと共に店へと下りてきた。


「長らくお待たせいたしました」

「いいえ、こちらこそですわ」


 シャロンが呼びかけると、ミルドレッドは口許にのみ笑みを浮かべて振り返った。

 眉目の間が狭く彫りの深い顔立ち、キトゥンブルーと言われる青い瞳、薔薇色の唇。ただ品良く整っているだけでなく、神話の女神のような神々しささえ感じられる美貌。革命を逃れ、この国に亡命した某国の貴族の末裔という噂もあながち嘘ではないだろう。

 そのせいかどうかは定かではないが、気位と差別意識も高く、マクレガー家の養女(正確にはシャロンの叔母シェリルの養女だが)とはいえ、身分不確かな(とされている)グレッチェンへの態度は路傍の石に対するようなものだった。

 シャロンの接客を望んだのも、別段彼に気がある訳ではない。彼女にとってグレッチェンが『自分がわざわざ口を利いてあげる』類いの人間と認めていないから。


「彼女はああいう女性だから、気にしてはいけないよ」

「……はい……」


 ミルドレッドが退店するやいなや、ほんの少しだけ肩を落とすグレッチェンにシャロンは慰めの言葉をかけた。頭では理解してはいるが、心中に薄い靄が大きく広がっていく。


「そうよ、グレッチェン。あの高慢ちきは割と誰に対してもあんな振る舞いだし、あなただけじゃないわ」


 ミルドレッド達と入れ替わりに、グレッチェンより小柄で痩せぎす、箒みたいに毛先がパサついたプラチナブロンドの娼婦が入店してきた。


「あ……、ミランダさん、いらっしゃいませ」

「貴族の血筋だかなんだか知らないけど、ご先祖様が、ってだけじゃない。汚職で失職して、王都からこの街に都落ちしてきた政治家の娘なのに」

「ミ、ミランダさん、その話は禁句タブーですよ……」

「でも本当のことじゃないの」


 ひどく吊り上がった大きな目は山猫のように鋭く、やんわりと窘めてきたシャロンを視線一つで黙らせた。元の顔立ち自体はやや童顔の愛くるしい美人だろうに、重ねてきた苦労の数々が本来の美しさを損なわせている。


「どんなに貴婦人ぶってみたところで娼婦は娼婦。自分は他とは違うとか思ってると、そのうち全部ひっくり返されるんだから。グレッチェン、紙巻煙草とスポンジをちょうだい」


 ガラガラに酒焼けした声が持つ凄みと説得力は暗く沈んだグレッチェンの気持ちを確かに浮上させた。それでも、一度心にかかった靄は完全に晴れることはなく、街を覆う黒い霧のように一日中漂っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る