第62話 Back To Black(3)

(1)


 黒雲に覆われた空に閃光が走り、雷鳴が轟く。己の背丈よりも高いアーチ窓に向かって霧雨が叩きつけてくる。

 間断なく続く稲光、鳴りやまぬ雷鳴に怯えもせず、女は窓越しに映る自身の顔を睨む。自身の顔の後ろに映る部屋の内装、家具調度類の贅の尽くし具合は今の自分には忌々しい以外の何ものでもない。用意されたアフタヌーンティーセットなど、とてもじゃないが手をつける気に到底なれない。

 皺が寄る程きつく握りしめた、女のスカートの腹部は丸く盛り上がっていた。


『妻に子供ができた。君の子を養子に迎える話は白紙に戻さざるを得ない』


 アフタヌーンティーを共にする予定だった男はそれだけ言い残し、逃げるように部屋を去っていった。


 あの小娘よりも己の方が血筋も美貌も知性教養も上回っているのに。

 一度失墜した者は、この身に流れる由緒ある血筋を正しく残すことすら許されないというのか。

 恥を忍んで生き続け、今の立場に甘んじ続けたというのに。全てが水泡に帰してしまったではないか。


 一際大きな雷鳴が地を揺るがす。二股に分かたれた稲光が窓を、部屋全体を青白く染め上げる。

 雷に乗じて大声で奇声を発したい。マントルピースやテーブル、飾り棚の上の花瓶や置物を次から次へと床へ投げ落としてしまいたい。


 なぜ、自分ばかりが理不尽に打ちのめされなければならないのか。

 なぜ――











「おーおー、ひっでぇ泣き声だなぁー。旦那の子じゃないって本当かよぉ??」


『臨時休業』の張り紙した扉が開き、ひょろりと背の高い黒スーツの男、ディヴィッドが耳孔に指先を突っ込みながら入店してきた。カウンターの中ではシャロンが籐製の籠ごと赤ん坊をぎこちなく抱きかかえ、途方に暮れている。多少は反り繰り返れてもまだ首が座っていない赤ん坊を直に抱く自信がないのだろう。

 ディヴィッドはカウンターから身を乗りだして赤ん坊の顔を覗き込む。新たに現れた見知らぬ大人に、赤ん坊は一瞬だけ大きな青い目を丸くして泣き止むも、更に激しく泣き始めた。


「違うと言っているだろう??」

「やー、でも、旦那もなかなかの遊び人だし疑わしいじゃーん??って、お嬢ちゃんは何してんだぁ??」

「……赤ん坊が苦手らしくて、さっきからあの調子で遠巻きにしている」

「なんだそりゃあ、ほら、ディヴィッドさんが来てあげたんだしー、こっちに来なよぉ」

 グレッチェンはディヴィッドが来たというのに、カウンターとその奥の部屋に通じる扉の影に身を隠している。ディヴィッドが呼びかけてもグレッチェンは扉に張りついたまま、一歩も動こうとしない。

「なにあれ、警戒心の強い猫かなんか??」

「うちの看板娘を猫呼ばわりするんじゃない」

「お嬢ちゃんが珍しく使えないこともあるんだなぁ。ジョゼ、いっちょ頼むわー」


 後ろを振り返ったディヴィッドが、入り口扉の前で様子を窺っていた人物にちょいちょいと手招きしてみせる。

 ジョゼと呼ばれたその人物は音もなく彼の傍らへ歩み寄っていく。一歩歩くごとに、ゆったりとしたティーガウンドレスの裾と、緩く一つにまとめて右肩に流した黒髪がサラサラと揺れる。

 ディヴィッドの隣に立つと、ジョゼはシャロンの腕の中で泣き喚く赤ん坊をちらっと見下ろした。グレッチェンと変わらぬ小柄で薄い体躯、流線型に切れ上がった双眸は黒水晶のごとく深い黒、全体的に小作りで薄い顔立ちながら独特の妖艶さが醸しだされている。


「Mr.サリンジャー、彼女は」

「こいつ、うちが経営する娼館で働いているヤツなんだけどぉ、ガキんちょの世話が巧いんだわー。売られてきた商品の世話は大体ジョゼに任せててさぁ。あ、東方の血が半分混じってるから、気になるとかぁ??旦那、東方の混血男ウォルター・ケインに酷い目に遭ってるもんなぁー」

「……大丈夫だ。あの男と彼女は全くの別物と区別できるし、ハルが呼ぶくらいだから信用に値する人物だろうから」

「当然だね」


 赤ん坊をシャロンの腕(と籐製の籠)から自らの胸に抱き上げ、あやしていたジョゼが初めて短い言葉を発した瞬間、シャロンは思わず彼女を二度見してしまった。相変わらず奥の扉に張り付いているグレッチェンも薄灰の瞳をパチパチ瞬かせた。

 ジョゼは言葉の訛りが強かった。外見に似つかわしい東方訛りではなく、一〇〇年程前に大革命が起きた某国の訛り。だが、訛りは彼女の名前からある程度予想がつくので二人が驚く理由には繋がらない。


「ハロルドさんはともかく、ディヴィッドさんの命令ならどんな内容でもは従うから」

 嫋やかな容貌とは相反する太く艶めいた声。何よりも口にした一人称。間違いない。

 二人の反応の意味を察すると、ジョゼはあぁ、と、どうでもよさそうに息を吐き、僅かに苦笑した。

「まぁ、背も高くないし下手な女より華奢だし。あんた達みたいな反応には慣れっこだけど」

「ん??」

「いいえ、やっぱり僕のこと、女だと思ったみたい」

「ははぁ、ま、勘違いされるだけ上手く化けてるってことだろぉ??それでこそうちの一番人気の男娼だよなぁー」

「お前ら、そいつら置き去りにしていちゃついてんじゃねぇよ」


 ジョゼの正体、ディヴィッドとジョゼのやりとりをシャロンとグレッチェンがぽかんと見守る中、本日二回目の来客(本人には客じゃねえと言われそうだが)、ハルが姿を見せた。


「で、グレッチェンはグレッチェンでこそこそ隠れてるんだよ」

「あ、それ、今さっき俺も突っ込んだとこー」

「おい、シャロン。グレッチェンをカウンターまで連れてこい。赤ん坊の第一発見者はグレッチェンなんだろ??」

「ああ、そうだ。ほら、グレッチェン、こっちへおいで」

「…………」


 シャロンとハル、二人がかりで手招きされてもグレッチェンは動かない。ジョゼのおかげで赤ん坊は泣き止み、彼の腕でうとうとしてさえいる。

 扉の奥に逃げ込まれる覚悟で、シャロンはグレッチェンの傍に足早に近づいた。さすがに逃げも隠れもしなかったが、グレッチェンはびくり、肩を大きく震わせて身を強張らせた。


「まだ私に怒っているのかね」

 シャロンから目線を大きく外し俯きながら、グレッチェンは無言で頭を振った。

「じゃあ、なぜ」

「赤ちゃんが、怖いんです……。ある程度、自分で動いて喋れる幼児ならともかく、自我すら持たない、こちら次第でどうとでもできてしまうような脆さが、怖いのです……」


 だから、最初に赤ん坊を発見した時も、頑ななまでに自分も赤ん坊の元へ行くように急かしたのか。怒っているというより怖がっていただけ。シャロンはすとんと腑に落ちた。腑には落ちたが、嫉妬が原因ではないと知るとホッとするような残念なような。そんな呑気で悠長な戯言言っている場合じゃないが。


「でも、今は君独りじゃない。あの頼りない赤ん坊を守ってくれるだろう人間が他にもいる。だから必要以上にこわがらなくてもいいから。それよりも、この赤ん坊の為にも君も含めて皆で話し合おう」

「……はい……」


 グレッチェンは小さく頷くと、ずっと伏せていた顔を上げた。その顔は先程までの頼りなげなものではなく、いつもの理知的なものに戻っていた。






(2)


 ジョゼの腕の中で赤ん坊は大人しく寝てしまった。

 シルクに似た光沢放つコットン素材の服はすっかり皺だらけだが、色素の薄い生えかけの髪、ぷっくりと膨らんだ頬、唇は薔薇色、むっちりした指先はグレッチェンの話通り、健康で裕福な生まれの子供だと窺える。


「本当にお前の子じゃないのか」

「しつこい。それに、電話でも話した通り、この赤ん坊の推定月齢を遡ってみたところ、こんな上等な衣類を用意できる家柄の令嬢と関係を持った覚えはない」

「本当にそう言い切れるのか??今まで関係持った女を全員覚えているなんて……」

「私の記憶力を侮るんじゃない」


 暗に、お前の頭の程度と一緒にしないでくれと匂わせたつもりだったが、その意図は正しく伝わらず。

 力説するシャロンにハルは明らかに頬を引き攣らせ、ディヴィッドはヒュゥ!と口笛を吹いてみせた。

 おや、と違和感に気づいたところで、数時間前に晒されたばかりの冷たい視線のナイフがすぐ隣からシャロンに再び突きつけられる。背中にゾクゾク走る悪寒をあえて無視していると、眠ってしまった赤ん坊を抱きながら書き置きの手紙を眺めていたジョゼがぽつり呟いた。


「この子はマクレガーさんの子じゃないと僕も思うけど」

「ジョゼ、君は良い子だなぁ」

「別に庇ってる訳じゃないけど、それなりに理由があって追従しているだけだよ。この手紙の筆跡の主と、赤ん坊の母親が紛れもなく同一人物だったら、ね」

「筆跡??」

「うん。あ、ディヴィッドさんなら、多分わかってくれるかと」


 ジョゼから手渡された手紙をディヴィッドは訝し気に読み返し、読み終えた途端、「……マジかよぉ!あいつかぁ!!」と叫んだ。


「お前も手紙の主が誰かわかったのか??」

「あぁ、まぁ、そんなとこー」

「誰なんだよ」

「この筆跡はあれだ、あれ、そう!あいつ!!」

「あいつじゃわからん」

「だぁーかーらぁー、あいつ!あいつだってば!!ああぁぁ、顔はしっかり浮かぶけども名前が出てこねぇ……」

「お前はボケ老人か。一発ぶん殴って思い出させてやろうか??」

 手紙を持っていない方、空いている左手の指先を天井に向け無為に泳がせるディヴィッドに、イライラとハルは問い詰める。いつでも殴る準備は万端だとばかりに、指を組んでぽきぽき鳴らしてさえいる。

「……人の店で暴れるのはやめてくれないか。兄弟喧嘩なら外で」

「ミルドレッドだよ」


 感情の籠らない声でジョゼが大人げない三十路達に言い放った。


「ディヴィッドさん、ちょっと手紙を貸してください」


 ジョゼはディヴィッドから手紙をさっと奪い返すと、今度はハルに手渡した。そして、シャロンとグレッチェンに、カウンターから出て来るように顎先で差し示す。二人がハル達の傍へ進み出ると、ハルを左右から挟む形で手紙を覗き込む。


「プリーズのPの形がさ、右側で丸めるところが小さいのに対して、文字の起点にあたる左側のふくらみが、やたら大きくて独特だよね??男娼になる前、僕はミルドレッドから礼儀作法と読み書きを少しだけ習っていたからよく知ってるよ」

「そうか。この赤ん坊の母親がミルドレッドであればシャロンは間違いなくシロだ。念のために確認しておくが……」

 ハルは気遣うようにグレッチェンの顔色を横目に窺う。冴えない顔色は変わらずとも、グレッチェンは『どうぞ遠慮なく』と示すべく首肯した。

「ミルドレッドを買ったことは」

「有る訳がない。彼女を買おうものなら、一晩で店の一か月分の売り上げが飛びかねない。大体にして、彼女は三年前に身請けされてこの街を出て行った筈」

「でもさ、おかしくない??この街にいない筈のミルドレッドがどうやって赤ん坊をこの薬屋に置き去りにしたのさ??僕たちが知らない間に出戻ってきたのかなぁ」


 ジョゼは視線に含みを持たせてディヴィッドとハルを振り返った。

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