第57話 Stand my Ground(12)

 (1)



 ――時、同じ頃。この街の高級住宅街。とある屋敷にて――



 個人の書斎にしては広すぎる部屋の壁際、天井まで届きそうな程の高さを誇る本棚が四方に置かれていた。全ての本棚には余すところなくぎっしりと分厚い本が並び、背表紙の題名から医学関連の書物だと窺える。

 中心に配置された書斎机、ベッドなどの家具一式を本棚で取り囲む部屋の奥――、炎が燃え盛る暖炉の前にて、老紳士が古いウィンザーチェアに座っていた。薄い毛布を掛けた膝には開かれたままの解剖学の本。読書の最中、睡魔に襲われたのだろう。うつらうつらと微睡んでいる。


 不意に、誰かに肩を叩かれ、重い瞼をゆっくりと開く。

 茫洋とする視界に映る、見慣れない人物の姿を確認した老紳士の眠気は一気に吹き飛んだ。

 

 彼の眼前には長身痩躯、真っ黒なスーツ姿、ハニーブロンドの短髪の青年が佇んでいた。肩を叩いたのは間違いなくこの男だろう。


 驚きで身じろぎすると膝から本が滑り落ちていく。

 男は老紳士が声を上げるよりも早く、背後へ回り込む。あっという間に彼の口元を塞ぎ、ナイフを首元に宛がってきた。


「観念しなぁ、コッパーフィールド卿さんよぉ。……いや、今はあえてこう呼ばせてもらおうかなぁー??『切り裂きハイド』さんよぉ」


 『切り裂きハイド』と呼ばれた瞬間、老紳士はカッと目を見開き、明らかな動揺を浮かべた。


「あんたが切り裂きハイドだって証拠はこっちで掴ませてもらったぜぇ??ったくよぉ、ファインズ男爵家の侍医っていう地位をカサに着て、警察上層部に圧力掛けやがってぇ……。おまけにさぁ、うちが経営する店の娼婦までぶっ殺しやがってよぉー。歓楽街を荒らしまくってくれただけでなく、うちの『商品』にまで手掛けやがったからにはただじゃあ済まさねぇぞぉ??」


 小猿を彷彿させる剽軽な顔立ちにヘラヘラとだらしのない笑み、間延びした口調とは裏腹に、男の金色が入り混じったグリーンの瞳の奥には憤怒の炎が燃え滾っている。


「あんたの息子が娼婦遊びに狂ったあげく梅毒でおっ死んじまったのはぁー、確かに気の毒だとは思うぜぇ??大事な大事な一人息子だったらしいしぃ??で、息子が死んじまったのが原因で、妙ちくりんな新興宗教にのめり込んだとかぁ??何か良く知らねーけど、人間の三大欲求の内、性欲を否定するとか、性を売りにする淫売に天罰が下すべく祈りを捧げるとかぁ??俺からしたらバッカじゃねぇの!って思うけどよぉー」


 盲信する宗教を愚弄され、コッパーフィールド卿は先程までの恐怖で凍り付いた表情から一転、凶悪な目つきでぎろりと横目で睨み付ける。

 しかし、老紳士の気迫もどこ吹く風、とばかりに男は鼻歌でも歌い出しそうな勢いで、楽し気に笑ってみせた。あげく、あろうことか口元を塞いでいた手を離しさえしたのだ。

 この機を逃すまい!老紳士は声の限りに叫ぼうと――したが、首の皮が切れるか切れないか、ギリギリのところでナイフを押しつけられ。吐き出そうとした言葉だけでなく息まで飲み込む羽目に陥った。


「いいねぇー、その、如何にも殺人鬼然とした狂気的なやばい目付き!そういやさぁ、共犯の御者の野郎もその宗教に入信してたらしいじゃーん??どうせ、あの冴えない風貌からして、性的不能か何かで馬鹿にされて女に恨みでもあったんじゃねぇの??あんた、あいつの劣等感に付け込んで犯行手伝わせたんだろぉ??あぁ、ちなみに、あの御者なら今頃は暴漢に扮した俺の仲間に殺されてると思うぜぇ??あと、あんたが貴族の立場と金の力利用して黙らせてた警察上層部にはぁ、親父が直々に出向いてったみたいだしぃ??あいつらもひっでー奴らだよ!あんたの娼婦殺しはゴミ掃除のようなものだから逮捕なんてとんでもない、むしろ街の害悪を片付けてくれて感謝すらしている、なんて抜かしやがったってさ!!どうりで事件現場付近で『コッパーフィールド家の紋章つき箱馬車を見た』って証言を徹底して握り潰してたって訳だわぁ!!警察が凶悪犯罪を容認するなんざぁ、まったくもって世も末だね!!」

「……君は何者だね??どのようにして我が屋敷に侵入した??見たところ、金品目的の強盗の類ではなさそうだが……」


 次から次へとまくし立てる男を遮り、コッパーフィールド卿は長らく閉ざしていた口を開き、言葉を発した。受け流すと思いきや、またもや男はぺらぺらと喋り出す。


「あぁ、こりゃあ失敬、失敬!俺は、サリンジャー一家の者でねぇ」

「……サリンジャー一家だと?!あの、野蛮で卑しい移民上がりの犯罪集団か?!男爵様はまだお前達のような者と親交を……!!」

「あららー、失礼しちゃうねぇ。俺達はその男爵様から、無能な警察じゃ解決できない事件を秘密裏に片付けるために動いてるだけなんだけどぉ??まぁ、手段を選ばないし、場合によっちゃいくらでも手を汚す点は認めるけどさぁー。あぁ、そうだ!……実はさぁー、あんたにこの手紙を渡してくれ、と、男爵様から頼まれたんでねぇ。でも、俺みたいな得体の知れない若造なんざ、格式高いお屋敷の使用人から門前払い食わされるのが目に見えてるじゃーん??だからさ、誰にも気づかれないようこっそりと塀を乗り越えて、玄関の錠前を仲間に破らせて屋敷内に不法侵入させてもらったって訳ぇ。で、これがその手紙な!」


 あっさりと侵入手口や素性を洗いざらい白状する青年に再び閉口しつつ、コッパーフィールド卿は差し出された手紙を恐る恐る受け取る。

 差出人の名を確認した途端、老紳士はあわや手紙を落としそうになった。

 筆跡からは間違いなく、ファインズ男爵本人が書いたものだと伺えたからだ。


「そうそう、ちなみに俺から手紙を渡されたらすぐにその場で読め、って、男爵様からの伝言ねぇー」


 ナイフを首に宛がわれた状態で、重度のアルコール中毒者のごとく手をブルブルと大きく震わせて封を開け、一枚の便箋を取り出す。便箋の中には、三角形に小さく折り畳まれた白い薬包が挟まれてあった。


「それは後でいいから、まずは手紙を読めよ」


 突如険しい口調に切り替わった男に言われるがまま、文面に目を通す。

 内容を読み進めていく内にコッパーフィールド卿の様子が変わり、読み終えると同時に腰が砕け、椅子からずるずると床へずり落ちていった。

 彼の手の中から擦り抜け、絨毯の上へ落ちた手紙と薬包を拾い上げると、男はざっと手紙の文面を軽く読み流す。


 ファインズ男爵からコッパーフィールド卿へ宛てた手紙の内容を要約すると――

『男爵家の侍医の役目を本日限りで解任する。汚らわしい犯罪者などに自分や我が家族の身を触れられたくなどない。残虐非道な事件の数々は勿論、侍医と言う立場が故、貴様の罪によってファインズ家の威信と名誉も著しく傷つけられたこと、到底許し難く、よって貴様には罪を償う機会など与えぬ。事件の動機については一切黙秘せよ。そして、その死を持って、我が家名に泥を塗ったことを償うのだ』と――



「へーえ、つまりは男爵様なりのあんたへのお慈悲ってところかい」


 男は手紙を読み終えると、暖炉の炎の中へと手紙を放り込む。手紙は音もなく、一瞬にして黒い燃えかすへと化していく。床に崩れ落ちたまま、茫然自失のコッパーフィールド卿の掌の中へ男は無理矢理薬包を押し込む。


「とりあえず、あんたへの用件はこれで終わりだ。男爵様の命令に従うもよし、まぁ、従わなくても警察が令状持ってここへ訪れるのも時間の問題だよなぁ。あとのことはあんた自身が決めることだしぃ、早いところどっちにするか選びなぁー。あぁ、ちなみに、俺の事を警察に話しても無駄だから」


 男は馴れ馴れしい仕草でコッパーフィールド卿の肩をポンポン軽く叩くと、振り返ることなく部屋から出て行った。







(2)



 ――更に二日後――



 朝食後の居間にて、共に長椅子に座りながら新聞を読んでいたシャロンとグレッチェンは、三面記事の見出しに目に留めるなり互いの顔を見合わせた。


「……シャロンさん……」

「……君が言わんとすることは、何となく分かるよ……」


 広げた新聞を覗き込むグレッチェンの瞳は怒りと戸惑いがないまぜとなり、感情の揺れが手に取るように読み取れた。シャロンも目を伏せ、内から湧き上がる憤りを抑えつける。




 切り裂きハイドの正体判明。犯人は、この街の統治者ファインズ男爵家に代々仕えし侍医コッパーフィールド卿である。


 ところが、警察が家宅捜査に乗り込んだ際、彼は服毒自殺を図り、すでに事切れていたという――



「……逮捕を恐れての自殺とは、何と卑怯な!……」


 苛立ち紛れに乱雑に新聞を畳むシャロンの横で、グレッチェンは黙って俯いた。

 膝の上で固く拳を握りしめ、胸の奥に渦巻く様々な黒い感情に心を波立たせながらも耐えていた。否、正確に言えば、耐えるしかない、と、心中で自身に言い聞かせるより他に成す術がなかった。

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