第56話 Stand my Ground(11)
(1)
――遡ること十日前・深夜未明――
アドリアナは、一人きりで歓楽街の表通りと裏通りの境周辺を歩いていた。
一日の憂さを晴らすべく訪れた人々で賑わい、徒っぽい女達が華やかな夜の世界へと誘う、煌びやかで淫靡な表通りから外れたこの場所は人気がほとんど見当たらない。街灯の灯りすらまともに灯されず、冬空を彩る月や星の光だけを頼りに歩くのは何とも心細い。
彼女が身を置く娼館は玄関から程近い大広間にて他の娼婦達と集まり、客からの指名が入るのを待つ仕組みになっている。しかし、夜の九時を過ぎても指名が入らない場合、街へ出て客引きに出向かなければいけない。
店にはアドリアナを含め一〇名の娼婦が在籍している。彼女は五番人気だったが、客に指名されない日も決して少なくない。
ドン・サリンジャーが経営する高級娼館の客層は、上流や裕福な中流の者が大半を占めている。小柄でやや地味な雰囲気の割に女性らしい豊満な身体つき、床上手と評判は良いものの、一番人気のレベッカのような艶やかで気品溢れる美女の方がどうしても需要は高い。
案の定、今夜もアドリアナを指名する客は現れず、仕方なく夜の歓楽街の喧騒に紛れ込んでいく。
切り裂きハイドの蛮行の影響か。ここ数カ月の間で歓楽街に訪れる人々の数は減り、他の店の娼婦は勿論、個人で身を売る街娼など多くの女達がアドリアナ同様に人気の多い表通りを徘徊し、男達に誘いをかけている。
娼館で働き始めてから二年が過ぎて尚、アドリアナは客引きが苦手だった。
大きな胸を強調させるため、襟ぐりがやけに空いた服装で深夜に歓楽街を闊歩しているところに目を付けた男を店に連れて帰るか、建物の物陰に引き込めればいいのだけど。などと考えている内に、表通りを粗方一周していたことに気づく。
ハルからは散々裏通りにだけは立ち入るな、と警告されている。それだけでなく、以前裏通りで酔っ払いに強姦されそうになったのを思い出し、深夜の冷え込みも手伝い、羽織っている安物のショールの端をキュッと掴む。
切り裂きハイドの件もあるし、やはり元来た道を戻ってもう一度表通りを回ってみよう。苦手だからとか思わず、ちゃんと声掛けしなきゃ。
踵を返そうとした矢先、蹄が石畳の道を踏み鳴らす音、車輪が転がる音が聞こえてきた。立ち止まって身構えていると、背後から一台の大型の黒い
(こんな夜更けに、何故、立派な馬車がうらぶれた場所に……??)
不審に思い、一刻も早くこの場から立ち去ろうと更に歩みを速める。
すると、頭上から御者の声が降ってきた。
「そこのあんた!ちょっと待ってくれよ!!」
振り返ってはいけない。頭の中で喧しい程に警鐘が鳴り響いている。
一瞬だけ振り返って確認した御者は酷く痩せ細った体躯で陰気臭い印象を与える小男だ。
「私に、何の用なの?!」
歩みは止めず、迫りくる馬車に怯え。不安と警戒心を露わにさせ、御者に向かって叫ぶ。
「……実は、俺のご主人様があんたを一晩買いたいらしいんだ!もちろん報酬はたっぷりと渡すってさ!」
二年前、娼婦に成りたての頃であれば快諾しただろう。
けれど、いくら人の好いアドリアナでも『上手い話には必ず裏がある』ことくらいは充分理解しているし、簡単に騙される程愚かじゃない。
「ごめんなさい、貴方も貴方のご主人様の言葉もどうしても信じられないわ!どうせ揶揄っているだけでしょ??もし本当に私を買いたいと思うのなら、店まで来て指名して欲しいわ。ラカンターって娼館よ!」
馬車が止まった隙に、アドリアナは早足からついに駆け足へと切り替える。
背中越しに馬車の扉が開き、踏み台が固い金属音を立てて地に滑り落ちる音、『ご主人様』と呼ばれた男が外へ出てきた音がした。
たったそれだけなのに、アドリアナは自らの身に危険が迫っているのをすぐに悟った。まるで、ひたひたと死の音を立てて、地獄から悪魔が忍び寄ってくるような――
今度こそアドリアナは全力で駆け出した。
御者が逃すものかとばかりに馬車を動かし、アドリアナの行く手を阻み、退路を断つ。
恐怖の絶頂に達し、逃げることも叫び声を上げるのもままならないアドリアナの背後を、いつのまにか『ご主人様』はとっていた。そして口元を塞ぎ抵抗を封じると――
躊躇うことなく、白い喉をナイフで深く抉るように搔き切った。
「さぁ、ご主人様!警官の巡回が来る前に早く!!」
事切れたアドリアナを、賭博場と煙草屋の間の路地へと御者が運ぶ。
これから『ご主人様』が行う『鉄槌』に邪魔が入らないよう、見張りを行う間、『ご主人様』は手早く作業に取り掛かる。
彼らは誰にも犯行を目撃されることなく、再び馬車に乗り込むと霧が一段と濃く拡がる闇の中へ消えていく。
およそ三十分後。巡回中の警察官が変わり果てたアドリアナを発見。
偶然、彼女を探し回っていたハルが近くを通りがかり、バラバラに切り刻まれた身体から見つけた僅かな特徴でアドリアナだと断定した、という――
(2)
一〇日前の記事に目を通すグレッチェンの、新聞を持つ手が激しく震えている。
取り落とすのでは、と、シャロンが手に手を添えようとしたところ、「……結構です。大丈夫ですから……」と拒まれてしまった。
読み終えた新聞を折り目に添って丁寧に畳むと、次は九日前の新聞を手に取り、拡げ始める。それも読み終えると八日前……、と、次々と切り裂きハイドに関する記事に目を通していく。
新聞記事を追うごとに手の震えは次第に小さくなっていったが、代わりに顔色がどんどん青ざめていく。全ての記事を読み終えた時には出会った頃のような、青白いを通り越して、幽霊と見紛う程に真っ白な顔色に変貌していた。
「……グレッチェン……」
「…………大丈夫、です…………」
今にも倒れてしまいそうなグレッチェンの身体を支えようとするも、やはり制されてしまう。何がこれ程までに彼女を頑なにさせているのか、と、ひたすら困惑し首を捻っていると「……アドリアナさんが……」と、グレッチェンがぽつりと漏らした。
「……アドリアナが何だって??」
「……アドリアナさんは……、どれ程までに……、痛くて辛くて恐ろしい最期だったのか……、と思うと……。あんなに素敵な人が悍ましい事件に巻き込まれてしまったのに、私みたいな、忌まわしいばかりの人間が周りから優しくされてのうのうと生きているのが……、辛いんです……」
「……なっ……」
全く想定外なグレッチェンの発言にシャロンは言葉を失った。
「……アドリアナさんじゃなくて、私だったら、まだ良かったのに……」
「馬鹿なことを言うんじゃない!!!!」
シャロンに大声で叱責されたグレッチェンは、飛び上がらんばかりに肩をビクッ!!と震わせ、一瞬にして口を噤んだ。内心、しまった、と後悔したものの、理性が昂ぶる感情を上回るのをどうしても止められない。
強引にグレッチェンの小さな両手をぎゅっと握り締める。
振り解かれるかと思いきや、やや怯えた上目遣いで見返されたのみだった。
「アッシュ、よく聞くんだ。哀しみに打ちひしがれる気持ちは当然だ。我が事のように、彼女が負った苦しみや痛みを代わってあげたかったと思うのも、君の優しさゆえだろうが……」
「…………」
「アドリアナの死で混乱しきっているとはいえ、自分の存在を否定するのは完全に間違っている」
「…………」
「私だって、いくら考えても到底納得などできないし、犯人には憤りばかりを感じているよ。朗らかで人の好いアドリアナが、何故あのような凄惨な死を遂げなければいけなかったのか、と。だが、仮に被害者が君だったとしたら……。……私は悲しみや憤りを通り越して、間違いなく発狂するだろうな……」
「そんな……、そんなの絶対嫌です!!」
今度はグレッチェンが声を張り上げ、シャロンの言葉を遮った。
依然顔色は悪いものの、薄灰の双眸は少しだけ生気が蘇りつつあった。
「アドリアナではなく自分だったら、と、君が考えるだけでも私は我が身を切り裂かれる以上に辛いんだ。いいかね、アッシュ。君は己を蔑ろにしがちだが、それは同時に君を大切に思う者達まで蔑ろにすることにも繋がってくるんだ」
「……え……」
「私や母やエドナを始めとする使用人達、ハルや、……アドリアナも……、形は違えど、君に心からの愛情を示している。ただし、当の君が自身を大事に思えないのなら、その愛情は流れていってしまうのでは??」
「…………」
「……話がかなり脱線したが、悲嘆にくれる余りに自分を貶めたところで何になると言うんだ。アドリアナが君に与えてくれた愛情を糧に、彼女の分まで君が幸せを掴んだ方が、彼女の性格上喜んでくれるのではないかと私は思うのだが……」
重ねた掌から伝わってくるグレッチェンの体温は、いつまでも経っても冷たいままだ。徐々に俯いていく顔を見下ろすシャロンからは、長い睫毛の先が微かに震えていることしか確認できない。
心配になり、顔を覗き込みながら何度も名を呼びかける。
よもや泣いているのでは、と、シャロンは肩を軽く揺さぶろうとしかけた時、折良くグレッチェンはさっと顔を上げてみせた。
「……シャロンさん、もう一つだけ、我が儘を、聞いてもらえますか……」
「何かね??」
「……今度、アドリアナさんのお墓参りに、私と一緒に出掛けて欲しいのです……」
神妙な顔つきで「分かった。約束しよう」頷いたシャロンにグレッチェンは、笑っているのか泣いているのか分からない、下手な笑顔で無理矢理笑い掛けてみせる。
この笑顔もまた、出会った頃と同じものだ、と、少々胸が痛んでしまう。
シャロンの心情を知ってか知らずか、グレッチェンは肩に掛けていた毛布を取り外して畳み始めた。
「……これ、ありがとうございました」
「まさか、今から自室に戻るのか??もう夜中の一時を過ぎているし、今夜は私の部屋で寝ていけばいいのに」
「……いえ、その……」
グレッチェンは唇をもごもごと動かした後、言い辛そうに先を続ける。
「……私の歳でシャロンさんみたいな大人の男性と同じベッドで眠るのは……、常識や倫理的に問題なのでは……、と、思うんです……」
「…………」
少し前までグレッチェンは、怖い夢を見た時や酷く落ち込んで眠れない時などに「一緒に寝て欲しい」と、時々シャロンの部屋を訪ねることがあった。
寒い夜に暖を求め、飼い主のベッドに潜り込む猫のような感覚で、さして気にも留めず共寝をしていたが、確かに夫人やエドナ達には決して話せることではないと黙ってはいた。
同年齢の少女と比べて身体が小さく、性格も幼い(と思い込んでいた)せいで余り意識していなかったが、十三歳と言えば思春期の盛り。微妙な年頃である。
「そ、そうだな……。一人で寝れるに越したことはないからね」
「はい。いつまでも、小さな子供のままでいる訳にはいけませんし……」
畳んだ毛布をシャロンに返して立ち上がると、書斎机の端の置かれていたカップを手に取り、すっかり冷たくなってしまったミルクを一気に飲み干す。
「シャロンさん、ミルクを持ってきてくれたことも新聞を見せてくれたことも……、本当にありがとうございました」
グレッチェンは僅かに唇の端を引き上げて薄く微笑むと、カップを手に、まだ暖かさの残るシャロンの私室を後にした。
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