第41話 Everybody's fool(12)
(1)
高級住宅街から歓楽街まで馬車を走らせること、約三十分。
馬車は、歓楽街の中でも上流階級が客層に当たる、一際煌びやかな建物群の前で止まった。
馬車の扉が開かれると共に、白髪頭をオールバックに撫でつけた燕尾服姿の老紳士、この賭博場の支配人だろう――、が二人を出迎える。
物腰こそ穏やかそうだが、薄茶色の瞳の奥には刃物の切っ先のような鋭さが垣間見える辺り、彼も裏社会で生きてきた人間であろうことが伺えた。
「ディヴィッド様より事情を聞き及んでおります」
支配人は抑揚のない事務的な口調で、この賭博場の二階は簡易宿泊所になっていて、今夜一晩その中の一室に泊まってもらうこと、宿泊に関する代金は全てディヴィッドが支払う手筈だということ……等を説明しながら、一般客に気付かれないように裏口から建物の中へと二人を招き入れる。
戸惑いながらも支配人の後に続き、裏口から二階へと続く階段を上がってすぐ左手の部屋へと案内された。
赤茶色の木製扉の向こう側には大きなダブルベッドが一つ、簡素な作りのテーブルと椅子、ベッドの左側には小さな出窓とクローゼット、反対側には便所とシャワー室に続く扉がある。
「バスローブと着替えはご用意してあります。他に何かご用件があれば、何なりと……」
「では……、薬箱と化粧落としがあれば今すぐ用意して頂きたい」
「かしこまりました。他には??」
「今から三十分後くらいに、温かい紅茶とブランデー、水差しを持ってきて欲しい」
「かしこまりました。まずは薬箱と化粧落としをすぐにお持ち致します」
一礼した後、支配人は階下へと降りて行く。
グレッチェンは所在なさげにベッドと机の間の空間に佇み、室内をぐるりと見回した。対するシャロンはベッドの端に腰掛けて、床に視線を落としている。
数分後、支配人が薬箱と化粧落としを手に再び二人の部屋に訪れ、シャロンがそれらを受け取るとすぐにまた静かに立ち去っていった。
「グレッチェン。疲れているところ申し訳ないが、ドレスを脱ぎたいから着付けを緩めてくれないか」
はい、と短く返事を返すとグレッチェンはシャロンの背後に回り、ドレスの留め具を外していく。
「グレッチェン、ありがとう。あぁ、そうだ。私がドレスを脱いで化粧を落としている間、先にシャワーを浴びてくるといい」
「……いえ、私は……」
「あの爆発で被った粉塵やほこりで身体が汚れているだろうし、君の左手首の傷に雑菌が入ったりしては後が大変だ。それに、手当をするならば清潔にしておいた方がいいだろう??」
「……そうですね……。分かりました……」
躊躇いながらもグレッチェンは素直に頷き、クローゼットからバスローブを持ち出してシャワー室へ入っていった。
微かに漏れ聞こえる水音を聞きながら、シャロンは窮屈なドレスを脱ぎ捨てバスローブを纏う。机の前の壁鏡に向かい、化粧を落とし、鬘を取り外す。
鏡に映る栗毛の妖艶な美女は、端正で涼し気な顔立ちの紳士の姿に戻っていく――
十五分程経過した後、小さな身体を大きめのバスローブに包んだグレッチェンがシャワー室から出てきた。
しっとりと濡れた髪や肌からさり気なく視線を外して立ち上がると、今し方自分が座っていた椅子をグレッチェンに指し示す。
「傷の手当てをするから、この椅子に座りなさい」
グレッチェンは言われるまま黙って椅子に腰掛け、シャロンは向かい合う形でベッドに座り直す。促されるよりも早く、グレッチェンは裾をまくり、左手首を差し出して傷痕を見せた。
水気に当たり柔らかくなったお蔭か、歯型の痕は少し薄らいだように見えるし、あれから出血した様子も見受けられない。思っていたよりも傷が浅かったことにシャロンは安堵する。
薬箱から消毒と脱脂綿を取り出し、消毒液に浸した脱脂綿で傷口を拭いていく。どろりとした半透明の傷薬を塗り、油紙を当てて包帯を巻く。
傷の大きさに反して少々大袈裟かもしれないが、念には念を置くべき。
薬を塗り終わると三度扉を叩く音と共に、今度は紅茶を淹れたカップ二つと空のグラスが二つ、水差し、ブランデーの瓶をトレーに乗せた女給が部屋に入って来た。
ありがとうございます、と受け取るグレッチェンを尻目に、シャロンはシャワー室へ向かう。
生温いばかりの水道水を頭から被り、身体に染み付いた汗と汚れを洗い流す。
犯されるまでに至ってはいないが、あの死んだ老人に幼少のみぎりにも、つい先刻にも身体をいいように弄られたかと思うと、たちまちゾッと肌が粟立ち、強い吐き気が込み上げてくる。
シャロンはウォルターに触れられた部分を念入りに石鹸で擦った。染み付いた穢れを残さず払うかのように。
けれど、汚れを落とそうとすればする程、逆に強固にこびりついて中々落ちてくれない。
そんな錯覚に陥りながら、やがて諦めるようにして――、ぐったりと重い足取りで部屋へ戻る。
グレッチェンは先程と同じく、ちょこんと大人しく椅子に座ったままでシャロンを待っていた。
机の上に置かれたカップに口を付けた様子もなさそうである。
「別に私が出てくるのを待たずに、先に飲めば良かったのに。折角の温かい紅茶がすっかり冷めてしまったよ??」
やれやれ、と、シャロンは肩で息をつくと、琥珀色の瓶の蓋を開けてブランデーを二つのカップの中へほんの少しだけ注いでいく。
「……おそらく、今夜は中々寝付けないだろうから、睡眠導入剤代わりだよ」
シャロンからブランデー入り紅茶のカップを手渡され、グレッチェンはおずおずとカップに口を付ける。
シャロンは冷めきった紅茶を一気に飲み干すと、ブランデーをグラスに注いで舐めるようにゆっくりと飲み始めたのだった。
シャロンのグラスが空になる頃、すでに紅茶を飲み切っていたグレッチェンの瞼が妙に腫れぼったくなり、とろんと下がり始めてくる。
ごく少量とはいえアルコール度数の強いブランデーのお蔭か、今宵の騒動での心身に受けた過度の疲労も相まって、強い眠気に襲われているようだ。
「グレッチェン、今夜は疲れただろう……。すぐにベッドで眠るといい」
シャロンの言葉に従い、グレッチェンは席を立つと広いベッドの中にその身を潜らせる。
程なくして、シャロンも彼女の隣に倒れ込むようにしてベッドに入り込んだのであった。
(2)
うつらうつらと浅くまどろみながらも、シャロンは完全には寝付けずにいた。
ウォルターから聞かされた話――、父ルパートが『銀の鎖』で起こした事件は、身を挺してでも自分を救うためだったと知った今、長年憎しみと蔑みのみを抱き続けていた父への想いが揺らぎに揺らいでいる。
母が女手一つで家を守り、薬屋の商売を切り盛りしながらシャロンを育てたこと。
自分は母に苦労や心配を掛けたくないと思う余り、成績優秀かつ聞き分けの良い子供として振る舞っていたこと。
その裏で、小柄で女の子と見紛う容姿と、父の阿片中毒、母の仕事や素性(レイチェルの場合は違っていたが、酒場の女給は売春婦も兼ねていることが多い)などが理由で学校の級友から苛めを受けていたが、母を悲しませたくないがゆえに一人で耐え抜いた。
いつしか、母や自分が辛い目に遭うのは全て父のせい、と、ルパートを忌み嫌ってはやり場のない複雑な感情に折り合いを付け始めた。
父に対する責任転嫁だという自覚は充分に持っているが、父から愛情を示された記憶がない以上、こちらからも愛情など抱ける筈がない――、そう考えていたのだが――
朦朧とする意識下でシャロンはぼんやりと考え事に耽っていたが、ふと隣でグレッチェンの身体がぶるぶると震えているのに気付いた。
「……グレッチェン??寒いのか??」
シャロンは起き上がると、頭まですっぽりと掛布を被り、海老のように横向きで身体を丸めているグレッチェンに声をかける。返事は返ってこない。
ただただ、掛布の上からでも分かる程に激しく身体を震わせている。
よもや急な発熱でも起こしたか、と、心配になったシャロンは、掛布を引き剥がして強引に抱き起こす。
グレッチェンが抵抗するよりも早く、後ろから抱え込むようにして額に掌を当て、熱の有無を確認する。額の感触は、熱いどころか異常なまでに冷たく感じられた。
無理矢理自分の方へグレッチェンの身体を向けると、グレッチェンは理知的な顔をくしゃくしゃに歪めて、今にも泣きそうな表情で唇をきつく引き結んでいる。
それでも、彼女は決して涙を流さない。否、流せないのだ。
レズモンド邸での火災が起きて以来、グレッチェンは泣けなくなっていた。
シャロンは、グレッチェンの頬を包み込むように掌を押し当て、もう片方で短い髪をそっと撫でてやる。
グレッチェンは、頬に当てられたシャロンの掌の上に自らの両手を重ね、髪を撫でられながら気持ちよさそうに目を瞑る。
マクレガー家に滞在していた頃のグレッチェンが心身共に弱りきっている時、夜眠る前などにこうやって彼女をよく慰めていたものだ。
まるで、雨に打たれて震える子猫を拾い、慈しんでいる様な気分の一方、人を殺めてしまった罪の意識が、彼女の繊細な心を引き裂かんばかりに酷く苦しめている――、そう思うと、シャロンの胸も張り裂けんばかりギリギリと痛み出す。
彼女に罪を犯させたくない反面、彼女を傍に置き続ける限り、きっとこれからも何度となく似通った出来事が起こり得るだろう。いっそのこと、冷たく突き離してしまった方がお互いのためなのかもしれない。
しかし、自分を心の底から信頼し、絶対的な忠誠心めいた深い想いを抱いてくれる彼女を今更手放したくなどない、繋ぎ止めておきたいのもまた事実。
ルパートが阿片を手放せずにいて破滅したように、もしかしたら、罪を犯させてまで彼女を手放せないゆえに、自分もいずれ破滅の道を辿っていくのかもしれない。
(……それでも構わない、とすら思う私も、父と同じく、否、父以上の愚か者かもしれないな……)
髪を撫でられていく内に、徐々に落ち着いた表情へと変わっていくグレッチェンをシャロンが見据えていると、ふいに頬と髪に当てていた手をそっと外される。
代わりに、今度はグレッチェンがシャロンの頬に掌を押し当てて、彼の癖のない黒髪をもう片方の手で優しく梳き始めたのだ。
面喰うシャロンに、グレッチェンは照れ臭そうに薄っすらとはにかんでみせる。
「……お返しです……」
「……何のだね??……」
「…………察して下さい…………」
普段ならば揶揄いがてら追及するところだが、今のシャロンにはそんな精神的余裕は持ち合わせていない。
ただ目を閉じて、グレッチェンが与えてくれる細やかな慰めに身を委ねていた。
しばらくの間、毛繕いをし合う猫達のように、互いに心の傷を癒し合っていた二人は、やがてどちらからともなく、深い眠りの底へと誘われていった。
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