第25話 煩悩コントロール(13)

(1) 


 シャロンの右肩の傷は失血の割に範囲は狭く、骨や血管にも異常や損傷も見られなかった。だが、脂肪が見える深さには達していたため、傷口の縫合手術を受けることとなった。


 エメリッヒ邸に呼び寄せられた医者による、麻酔なしでの縫合。呻き続けるシャロンの手をずっと握りしめながら、グレッチェンも胸を裂かれる思いで見守り続けていた。

 しかし、さすがは上流階級専属の、腕利きの医者。術後、細菌感染することもなく、傷は順調に回復しつつあった――





 ――事件からしばらく後――



 閉店後、立て看板の片付けや売り上げの帳簿付けを終えると、水を張った洗面器を手にシャロンの私室へ足を運ぶ。

 例によって例のごとく、床には本の山脈が広がっている。シャロンは辞書を片手に外国の医学書を翻訳している最中だった。


「シャロンさん。研究を頑張るのは結構ですが、程々でキリをつけて下さい」


 医者から静養するよう言い渡されたのをこれ幸いに、シャロンは部屋で日がな一日研究に没頭している。怪我に障らないよう、今の所無理はしていないみたいだが、油断は禁物だ。


「ほら、あちらの長椅子に腰掛けて、シャツを脱いでください」

「……グレッチェン……」

 本に栞を挟みながら、シャロンは溜め息をつく。

「何回も言っているが、薬を塗ってくれるのは大変ありがたいけれど……。身体を拭くのは自分でやるよ……」

「駄目です。まだ傷口が完全に塞がっていないところへ、万が一濡れたタオルを当ててしまったりしてはいけません」


 抵抗するだけ無駄だと言うことは百も承知していたが、やはり今回も失敗に終わった。仕方なくシャロンは長椅子に移動し、のろのろとシャツのボタンを外していく。

 右肩の包帯と傷に当てられた油紙を取り外す。一瞬女性のものと見紛う滑らかな肌には赤紫色に引き攣れ、巨大なミミズが張り付いたかのような傷痕が残っており、見るも痛々しい。

 傷に触れないよう、濡らしたタオルで首筋、背中、左肩、両腕を丁寧に拭いていく。冬ならともかく、夏場は汗による刺激で肌がかぶれてしまいかねない


 夜更けに、密室で、憎からず想っている女性に、上半身だけとはいえ直に素肌に触れられている。蛇の生殺し以外、何物でもない。


 シャロンは、グレッチェンに傷の手当てを全面的に任せてきたマクレガー夫人を心底恨めしく思った。彼の悶々とした思いなど露ほどにも気付いていないグレッチェンは、手際良く化膿止めの薬を塗り、新しい油紙を当て、清潔な包帯を巻き直している。


「ありがとう」

 シャツに袖を通しながら礼を述べると、グレッチェンは複雑そうな表情を浮かべる。これもほぼ毎回のことだ。

「グレッチェン、何度も言わせないでおくれ。この傷は君を守ったことに対する名誉の負傷だと思っている。気に病むのはいい加減やめなさい」

「……はい……」


 シャロンは、口ではあえて窘めつつ、彼女がつい表情を曇らせてしまう理由を充分に理解していた。

 なぜなら、グレッチェンはシャロンの怪我に心を痛めているだけでなく、彼の肩の傷跡を目にする度に、クラリッサの処遇について思い出しては苦い思いに駆られていたからだった。






(2)  

 

 事件後、休憩室でシャロンが口にした予想は見事に的中した。


 娘が犯した罪が元で会社の信用を失墜させたくないエメリッヒ氏は、秘密裏に行った示談でメイド二人の死を隠蔽。クラリッサは精神病院の隔離病棟へと強制入院させた。

 シャロンとグレッチェンには医療費を含めた慰謝料及び、真実を決して他言しないようにと多額の口止め料が支払われた。


 当初グレッチェンは頑として拒否の意を示していたが、『下手にごねて上流の人間を敵に回すと厄介だし、この件が元で君の素性が知られてしまう可能性も無きにしも非ずだ。それだけは何としても避けなければならけない』とシャロンに諭され、最終的には不本意ながらも金を受け取ったのだった。

 

 胸の内では、決して納得などできていない。

 否、出来る筈があるものか。


 結局、グレッチェンがクラリッサに伝えたかった思いが何一つとして伝わらなかっただけでなく、罪を償う機会すら彼女には与えられなかった。



「グレッチェン。君は何も悪くないから」

「……えっ……」

「冷たく突き放すだけじゃなく、もっと心から反省するように説得すれば良かったとか……、考え出したらキリがない」

「…………」

「過ぎてしまったことはいくら悔やんでも仕方ないんだ。それよりも、今後の自分はどうあるべきかをしっかり考えた方がいいと、私は思うがね」


 できれば、もう毒を売る裏稼業からは手を引いて欲しいけれど。

 

 だが、この言葉を口にしたら最後、彼女は従うと同時に自分の前から姿を消し去ってしまうだろう。それだけはどうしても、何が何でも阻止したい。シャロンは喉まで出かかった言葉を静かに飲み込む。 黙って小さく頷くグレッチェンに軽い眩暈すら覚えた。

 

 

「煩悩コントロール」(完)

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