第24話 煩悩コントロール(12)
(1)
キャロラインは美しい顔を涙でぐちゃぐちゃにさせ、腰を抜かしかけていた。
振り返ったクラリッサは瞳に明らかな動揺の色を浮かべ、シャロンに寄り添うグレッチェン、背後のキャロラインとを何度も何度も交互に見比べる。
おそらく、何故キャロラインが二人もいる?!と混乱に陥っているのだろう。手にしていたナイフが滑り落ち、絨毯の上をシュルシュルと二、三回円を描きながら少し遠くへ転がり落ちたが、拾い上げることすらしない。
その間にも、キャロラインは耳をつんざくような悲鳴を上げて、這う這うの体で元来た道をよろよろと戻っていく。その様子にシャロンとグレッチェンは胸を撫で下ろす。
「……レディ・クラリッサ。これでご理解いただけたかと思いますが……、貴女が襲いかかった女性は妹君のレディ・キャロラインではありません」
「……何ですって?!……」
クラリッサは目を白黒させて、もう何度目かになるだろう、グレッチェンとさっきまでキャロラインが居た場所をまた見比べる。
「……では、私は、また関係のない人間を手にかけようとしていたの……??……」
ここでクラリッサは、やっと自分が犯した失態に気づく。途端に全身を脱力させ、床へ崩れ落ちる。
「クラリッサさん……、私は……、以前、毒を貴女に求められた薬屋の店員です……」
周囲に人がいないことをよく確認した後、自らの素性を明かす。
クラリッサはゆっくりと顔を上げ、グレッチェンをじっと見つめる。正気を取り戻しつつあるのか、つぶらな淡いグレーの瞳の中の狂気はすっかり影を潜めていたが、代わりに完全に生気を失っていた。
「……毒??……あぁ、貴女、あの時の……。鬘を被って盛装していたから、全然分からなかったわ……」
「……でしょうね……」
「……あの時は、貴女が断ってくれてよかった、って、後でホッとしたの。さすがに殺すのは可哀想だと思って……。……でも、顔を合わせると駄目ね……。あんな女死ねばいいのに、って思ってしまうの……。自分が綺麗だからって、どこまでも私を馬鹿にして親切すらも
誰に言うでもなく虚ろな瞳でクラリッサは淡々と語り続ける。しかし、彼女が更に続けた言葉に二人は耳を疑う事となった。
「結局、キャロラインは殺せなかった……。でも、関係のない、身分の低い使用人を殺した罪で捕まるのは絶対に嫌……。本末転倒だもの……。ねぇ、今度こそ私に毒を売ってくれないかしら。お金ならいくらでもあげる。殺すのは自分自身だし。ね、いいでしょう??」
グレッチェンはクラリッサの縋るような視線を、避けることなく受け止め続けていたが、やがて、静かに立ち上がった。
破いたアンダースカートは正面から見ると、小枝のごとくほっそりとした、背丈の割に長い脚が露わになっている。
見てはいけないものを見てしまった気分に陥り、シャロンはさりげなくグレッチェンから目を逸らす。成人女性が人前で脚を晒すのは最も恥ずべき姿であるからだ。
当のグレッチェンは自身のあられもない姿を一切気に留めず、ゆっくりとクラリッサに近づいていく、かと思われた。だが、そのまま横を通り過ぎ、落ちていたナイフを拾っただけだった。
しかし、すぐにクラリッサに歩み寄り、彼女の目の前に立ち止まる。
バチン!!
シャロンは、たった今目の前で起こった光景に唖然となり、口をあんぐりと大きく開けた。対して、クラリッサは目を見開いて呆然としている。
グレッチェンがクラリッサの頬を平手打ちしたのだ。
「甘えるのもいい加減にしてください」
冷たい鉄面皮を張り付かせ、抑揚のない無感情な口調ではあるが、明らかにグレッチェンは怒りに駆られている。
「罪を背負う覚悟もなければ、いざとなれば自死を選んで罪から逃げようとする。自らが起こした行動に責任を取らないような、どこまでも自分本位で愚かな人に渡す毒などありません」
すげなくそう告げると、グレッチェンはクラリッサに背を向け、シャロンの元へ戻ろうとした。すかさずクラリッサは、グレッチェンのオーバースカートの裾を掴んで引き留めようとする。
「放してください。毒を売らないのですから、これ以上私に用はありませんよね」
クラリッサの手から裾を引き離そうと、グレッチェンはオーバースカートを強く引っ張り上げる。思いの外クラリッサは簡単に手を離したので、裾はするりと彼女の掌からすり抜けた。
「……美しい貴女には、私の気持ちなんて天地がひっくり返ったとしても、わからないでしょうね……」
「えぇ、そうですね。私が美しいかどうかはわかりませんが、貴女の気持ちに理解などできませんし、しようとも思いません。不幸に酔いしれるのは自由ですが、関係のない他者を傷つけても良い理由になんかなりません。それと……」
グレッチェンは淡いグレーの瞳に非情な光を湛えながら、言い放つ。
「貴女が愛されないのは容姿のせいではありません。ひたすら己を哀れんでいるだけ、他者から同情されたがっているだけの人など、誰からも愛される訳ないじゃないですか」
辛辣極まる言葉に、クラリッサは堰を切ったように大声を上げて号泣し始めた。グレッチェンは一切見向きもせずにシャロンの傍に再び寄り添った。シャロンは床に腰を下ろし、膝を抱え込むようにして座っていた。
「随分と厳しい言葉を突きつけたな……」
「本当のことを言ったまでです。シャロンさんだって、九年前の私がただ己の不幸を嘆いているだけの身だったら、関わろうとしなかったのでは??」
シャロンはぎくりとした。
確かに、グレッチェン、いやアッシュを気にかけ始めたきっかけは、彼女が辛い環境下に置かれていても、自分を少しでも成長させようとする強い意思を感じたから。
当然、これはシャロンの胸の内にずっと仕舞っていた思いで、グレッチェンに話したことなど一度もない。なのに、ぴたりと言い当てられてしまった。
(……いやはや、彼女には本当に敵わないなぁ……)
シャロンが指先で頬をポリポリと掻いたと同時に、「いたぞ!クラリッサお嬢様はあそこだ!!」と、ようやく大勢の人々が三人の元へ駆けつけたのだった。
(2)
その後、クラリッサは抵抗一つせずに大人しく拘束された。
シャロンとグレッチェンは共に休憩室に運び込まれ、長椅子に座りながら医者がくるのを待っていた。
「……もしかしたら、エメリッヒ家は醜聞を広めたくないがため、財力を使ってこの件を揉み消すつもりかもしれない。警察を呼んだかどうかすらも怪しい……」
痛みと疲労が限界に達しそうなのか、それを誤魔化すために先程からシャロンは意味もなく喋り続けている。グレッチェンは適当に相槌を打ち続けていたが、よく動く唇に反して、一段と顔色が青くなっていくシャロンを見兼ねてこう切り出す。
「シャロンさん、お医者様が来るまでの間だけでも横になっては??」
「いや、いい。服に付着した血で長椅子を汚す訳にはいかないからね……」
「ですが……、怪我の痛みだけじゃなく、失血で貧血を起こしかけているのではないのですか??」
本人は気付いていない、もしくは耐えているつもりなのだろうが、さっきからシャロンの頭がゆらゆらと縦に横にと不安定に揺れている。その内、ぱたりと倒れたりしないか。隣に座るグレッチェンは気が気でない。
「いや、大丈夫だよ。それよりも、君の捻った足こそ大丈夫なのかね??」
「私の足こそ、怪我と言う程大したものでは……」
次の瞬間、シャロンの身体がぐらり傾き、咄嗟にグレッチェンはシャロンの頭を胸に抱きかかえていた。
「だから言ったじゃないですか……」
幼子を寝かしつけるように、シャロンの気分の悪さを僅かでも紛らわそうと彼の黒髪を撫でつけ、落とさないようぎゅっと強く抱え込んだ。
(……真剣に身を案じてくれているのは、ありがたいのだが……)
グレッチェンの胸に顔を埋めている状態のシャロンは、これはどうしたものかと当惑しきりだった。
この程度で欲情する程自分は若くないし、冷静さを保つことなどいとも容易いことである。そもそも、この状況下では誰が相手であってもその気を起こすなど到底ありえない。
それでも男である以上、要らぬ考えをどうしても巡らせてしまうもの。
予想通り、手の平の方が若干余りそうな控えめさだ、とか……。
「……グレッチェン、この態勢は色々と問題があると思うから放して欲しい……。あぁ、どうせなら、こっちの方がまだいい」
「えっ??」
言うやいなや、シャロンはグレッチェンの膝の上に頭を乗せ、左肩を下に横向きで長椅子に横たわった。
「シャロンさん!何を考えているんですか!?」
今度はグレッチェンが狼狽える番だった。
「さっき横になれ、と言ったのは君じゃないか」
「横になってくださいと言いましたが、膝を枕にしていいとは言ってません」
「目の前に極上の枕があったら、使いたくなるのは当然だろう??」
グレッチェンは顔から耳、胸元まで真っ赤に染めて怒っていたが、怪我人を振り落とす訳にもいかず、最終的には「……勝手にしてください……」と、渋々ながらも了承したのだった。
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