美しい名前

子グレ×シャロンがデートするお話ですが、あの火災直後のエピソードも出てきたりでシリアス目、かも。後半では「グレッチェン」の由来が明かされます。

第26話 美しい名前(前編)

(1)


 閉店後の片付けを終え、歓楽街からウエスト地区の自宅に馬車で到着したのは午後九時半過ぎだった。

 御者に乗車賃を支払い、玄関の扉から邸内に入ったシャロンはある違和感を覚えた。


「お母さん、グレッチェンは??」


 玄関を開けるなり、控えめな笑顔でおずおずと出迎えてくれるグレッチェンの姿が、今夜に限って見当たらない。

 その小さな灰かぶり姫の代わりに、困惑したような笑みを浮かべる母マクレガー夫人がシャロンを出迎えてくれている。


「あ、お母さん、ただいま帰りました。……あの、グレッチェンは??」


 帰宅の挨拶を言い忘れていたことに気付き慌てて口にするが、やはりいつもいる筈のグレッチェンがいないことが気掛かりで再度尋ねた。

 一足先に眠ってしまっただけならいいが、もしも急な体調不良を起こして寝込んでいるとかでは――

 露骨に不安気な顔を見せるシャロンに夫人は益々複雑そうな――、どことなく申し訳なさそうにも見える、力無い笑顔で答えた。


「グレッチェンならまだ部屋で起きている……、と思うわ……」


 何とも歯切れの悪い母の言葉に眉を潜めると、夫人はふぅ、と小さく嘆息しがてら、話を続ける。

 話に耳を傾けている内にシャロンの眉間の皺が徐々に深くなっていく。

 そして話が終わるやいなや、玄関から奥の階段へ。

 階段を駆け上がり、二階のグレッチェンの部屋へと急いだ。


「グレッチェン。起きているのだろう??中に入らせてもらうよ」


 グレッチェンの部屋の前で声をかけると同時に扉を叩く。返事も待たずにシャロンは扉を開ける。

 しかし、カンテラの薄明かりで照らされた室内にグレッチェンの姿が見当たらない。


 きっとどこかに隠れているんだ、そうに違いない。

 擡げてくる焦りや不安を心中で宥めながら、扉の前で室内をぐるりと見渡してみる。

 鏡台や勉強机、本棚、ベッドの上――、パッと見て目に付くところにはいなさそうだ。


 よもやクローゼットの中に隠れているとかではないだろうな、と、壁際に置かれたクローゼットの把手を掴む。

 まだ子供とはいえ女性の持ち物を勝手に漁るようで気が引けるが仕方ない。


 心中で言い訳しながらクローゼットを開こうとした時、別の方向から微かに衣が擦れる音がした――、ような。

 把手を掴んだまま、注意深く耳をそばだてる。何処だ、何処に隠れている――??


 横目でクローゼットの隣の本棚、本棚の近くの机に視線を移動させる。

 きちんと机の下にしまわれている筈の椅子と机の間隔が、少し空いている気がしないでもない。

 クローゼットの前から離れて机の傍へと近づいていく。

 ひゅっと小さく息を詰める音、間違いない。


 ため息混じりに椅子を後ろへ引いてみる。

 シャロンが椅子の前に来た時点で諦めたらしく、いとも簡単に椅子は動かせた。


「……グレッチェン……」


 小さな身体を押し込むように隠れていたグレッチェンと目線を合わせるべく、シャロンは机の下にしゃがみ込む。グレッチェンは機嫌を窺うようにおどおどと上目遣いで彼を見上げている。


「怒らないから、まずはそこからすぐに出てきなさい」


 務めて穏やかに言えば素直に応じ、もそもそと机の下から這い出してきた。警戒心の強い子猫みたいだなと頬が緩みそうになるのを堪え、真面目な顔を取り繕う。


 立ち上がったグレッチェンは後頭部辺りでシニヨンに結い上げ、結い上げた部分をネットに包んだ上にベルベット素材の群青色の大きなリボンを結んでいた。

 灰色とアッシュブロンドが混じり合った微妙な髪色を目立たなくするために、マクレガー夫人が配慮したのだろう。

 リボンと同じ色と素材の訪問用ドレスを纏ったグレッチェンは、少々痩せ気味の体格やしょんぼりとした表情を差し引けば、充分良家の令嬢の雰囲気を醸し出している。


(却って、そういった部分がの気に障ったのだろうか)


 先程、マクレガー夫人から聞かされた話を思い出し、苛立ちが込み上げた。



 夫人は時折、マクレガー本家の婦人達からお茶会の誘いを受けてしばしば本家へ赴く時がある。


 表面上は同じ一族同士の交流を深めるため――、とはいうものの、一人だけ身分が低いため、お茶会に呼ばれる度に他の婦人達から嫌がらせじみた仕打ちを受けていた。

 だが、有名な製薬会社を経営し貴族並の地位と財力を誇る上流の本家に対し、裕福とはいえ一介の薬屋でしかない中流の分家とでは身分が違う。

 否が応でも従わざるを得ないため、嫌々ながらも夫人はお茶会に参加するしかなかった。


「まぁ、これが毎日であれば気が狂いそうになるけどほんの数時間我慢すればいいだけだもの。下手にあちらの気分を害したら後々面倒臭いでしょ??退屈しのぎに付き合ってあげていると思っておけばいいのよ」

 

 夫人はあっけらかんと笑い飛ばしているが、一族のお茶会から帰宅した母が疲れ切った顔をしているのをシャロンは知っている。

 大の大人の夫人ですらこうなのだから、まだ幼く、人一倍繊細なグレッチェンにはさぞかし堪えたに違いない。


『今回のお茶会に例の養女も伴うように』


 今日のお茶会の招待状にそう書かれていなければ、夫人もシャロンも絶対に参加させたりはしない。

 夫人は詳しく教えてくれなかったが、おそらく一族の婦人達によって相当に嫌な思いを味わされたせいで帰宅するなり部屋に閉じ籠り、着替えも食事もせずに落ち込んているのだろう。


「…………ごめんなさい…………」  

 聞き逃してしまいそうな程、小さく掠れた声でグレッチェンが呟いた。

「……わ、私が、いけないんです……。緊張、していたとはいえ……、シュガーボックスをテーブルの上にひっくり返してしまって……、テーブルがお砂糖だらけに……。そのせいで……、お義母様が、皆さんから『養女の躾がなっていない』と散々笑われて……」

「…………どういうことだ…………」

「…………すみません、すみません!……私が、駄目な子だから、お義母様まで悪く言われてしまって……」

「もういい、グレッチェン。君は何も悪くないし、勿論母も悪くない。悪いのは、そんな些細な事でいちいち揚げ足とっては嘲笑する愚か者の方だ」

「……でも……」

「私がいいと言っているんだ。君は、君の事を何も知らない癖に分かったような顔をする輩と、この私とどちらの言葉が信用に値すると思う??」

「それは……、勿論、シャロンさん、です……」

「だったら、もう必要以上に落ち込むのは止めなさい、いいね??」

「……はい……」

   

 それでもグレッチェンが立ち直るには時間が掛かるだろう。

 最近になってようやく周囲にも少しずつ見せ始めたグレッチェンの笑顔を取り戻すにはどうしたものか。

 自室に戻ってからもシャロンは思案を巡らせていた。








(2)


 ――翌日――



 部屋の扉を叩く音でグレッチェンは目を覚ました。


 エドナが朝食の時間を告げにくるにしてはまだ少し早いような……、と、眠い目をこすりながらベッドを抜け、扉を開ける。

 扉を開けた先には、すでに着替えを済ませたシャロンが佇んでいた。


「おはよう、グレッチェン」

「おはようございます、シャロンさん。どうしたのですか、こんな朝早くに」

  少し驚いた様子で、淡いグレーの瞳を丸くするグレッチェンに、シャロンは優しく微笑む。

「グレッチェン、今日は気晴らしに私と街へ一緒に出掛けないか??」

「……えっ??でも……」

「たまにはいいじゃないか。見聞を広めるつもりでどうだね??」

   

 嬉しそうでありながら、有無を言わせぬ威圧感を湛えたシャロンの笑顔を前に、グレッチェンは、分かりました、と答えるしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る