第22話 煩悩コントロール(10)
(1)
『汗でお化粧が崩れたから直しに行きたい』と、非常に苦しい言い訳を残し、グレッチェンは口説き続ける青年からようやく離れられた。
(……疲れた……。ちょっと一人になりたいわね……)
どうせシャロンは夜会が終わるまでは戻ってこれない。少しの間だけなら、会場から抜け出しても大丈夫だろう。扉を開き、休憩が取れる場所を探しに外へ出て行く。
染み一つない真っ白な壁と、よく磨かれた黒い大理石の廊下。白と黒のコントラストの間を彩るような深緑の絨毯を、覚束ない足取りで踏みしめ休憩室を探す。
大広間から続く廊下をひたすらまっすぐ進むと、やがて大きな窓に突き当たり、道が左右に分かれる。そこで右へ曲がって三メートル程進み、『休憩室』の札が掛けられた部屋に行きつく。
念のため、扉を叩いてみるが中から返事は返ってこない。思いきってそっと扉を開ければ、部屋の中には誰の姿も見当たらない。グレッチェンは中へ入ると、すぐに部屋の内鍵をかけた。
緑色の布地に黄色い縦縞の刺繍が入った長椅子が二脚、椅子と椅子の間には台の四隅に金箔の細工が施された焦げ茶色のローテーブル。
奥の壁には部屋全体を映し出す巨大な鏡があり、天井を見上げれば煌々と灯りを燈すシャンデリアが吊り下げられている。
高級な代物だとすぐに見て取れる家具類に気が引けながらも、長椅子の隅の方に腰を下ろす。履き慣れない靴のせいで、足が痛かったからだ。
不作法だと思いつつ、誰も見ていないから、と、足を伸ばして靴を脱ぐ。前屈みの姿勢で膝の上に肘をつき、ふぅぅーーと、長い長い息を吐き出す。
ふと、足元に置いた靴に目を留め、手に取ってみる。
十二㎝の踵の高さには慣れないが、ドレスの刺繍に合わせた銀色のクロムウェルシューズは正面のバックルに飾り付けたイミテーションパールも相まって硝子の靴を彷彿させる。
小柄なグレッチェンは足の大きさも他の成人女性と比べてかなり小さいので、『まるで灰かぶり姫の靴みたい』と柄にもなく夢見がちな発想を思い描いていた。
コンコンーー
急に飛び込んできたノックの音に、靴に意識を集中させていたグレッチェンは一気に現実に引き戻された。慌てて靴を履こうとするも焦りで上手く足が入らない。
扉の向こう側の人を待たせてはいけないので、しかたなく靴を手に取り、裸足(厳密に言うとストッキングは履いている)のまま扉を開け放す。
扉を開けた先に立っていた人物の正体ーー、それはクラリッサだった。
(2)
グレッチェンは、クラリッサの姿を見た途端に息を飲んだ。
複雑に編み込まれた赤毛の髪はあちこちほつれ、グレッチェンや妹と同じ薄灰の瞳は心ここに非ずと言わんばかりに茫洋としている。おまけに、血痕を思わせる赤い染みがドレスの胸元やスカート部分にべっとりと付着していた。
「……ク、クラリッサさん、一体、どうされたので……」
ここでグレッチェンは、目をこれでもかと大きく見開き、言葉を失う。
クラリッサが、グレッチェンに向けてナイフを振りかざしてきたからだ。
咄嗟に体当たりすればクラリッサは派手に転倒し、その隙にグレッチェンは部屋から飛び出した。
「……待ちなさい!キャロライン!!」
グレッチェン以上に幅が細いスカートのせいで起き上がるのに悪戦苦闘しながら、クラリッサはドスの利いた金切り声で叫び散らす。一体何があったのかは知らないが、精神が錯乱していることは火を見るより明らか。
こんな危険な状態の人間が大広間に向かったら、おぞましい惨劇が起こってしまう。ならば、いっそのこと自分の後を追わせて大広間からクラリッサをなるべく遠ざけよう。
クラリッサのあの装いでは走ることはおろか、速足で歩くことさえ難しいに違いない。
グレッチェンも幅の細いスカートに加え引き裾という点では走ることは厳しい。だが、裸足に近くなったことで歩くのが楽になった分、クラリッサよりはまし。その間にすれ違った者に警察を呼ぶよう頼んでみるしかない。
たった数秒の間でここまでに思い至ると、クラリッサが立ち上がるよりも早く、大広間と反対方向へ歩みを進める。
「……あ、靴……」
クラリッサを突き飛ばした時に、手にしていた靴も落としてしまった。
(……せっかく、お義母様に買っていただいたものなのに……)
ごめんなさい、と心中で謝りながら、廊下の角に差しかかる。すると、食器を運ぶワゴンらしきものが見えた。近くに使用人が近くにいる筈だ。
助かった。これでクラリッサを抑えられるかも……、と安堵したのも束の間。ワゴンに近づくとグレッチェンの心臓が凍りつく。
空いたグラスや皿が大量に乗ったワゴンと壁の隙間には、心臓を一突きされた若いメイド、廊下の真ん中では背中を数か所刺された中年のメイドの姿が。
彼女が手にしていたナイフは、このワゴンから奪ったものーー、か??
一体、何が、あの大人しげな女性を恐ろしい狂女へと変貌させてしまったのだ??
「見つけたわよ!キャロライン!!よくも……、よくも、私のドレスを汚してくれたわね!!お前は何度私に恥をかかせれば気が済むの!!もうこれ以上は許さないわ!!」
背後を振り返ると、クラリッサが目を血走らせてグレッチェンに徐々に迫ってくる。焦りが募る中、スカートの裾を踏んづけてしまった。
「……痛っ!……」
転倒こそ避けられたものの、身体を庇った際に運悪く右足首を捻ってしまった。だが、動かなければクラリッサに刺殺される。
一歩動かす度に神経がぴきりと引き攣る。グレッチェンは右足を引きずるようにして必死に逃げた。
けれど、一定に保たれていたクラリッサとの距離はどんどん詰められていく。元からの夏の気温の高さによるものだけでなく、恐怖からくる冷たい汗が顏のみならず身体中から噴き出てくる。
痛い、怖い。痛い、怖い。痛い、怖い。痛い、怖い!痛い、怖い!!痛い、怖い!!
この時のグレッチェンはすでに恐慌状態に陥り、普段の冷静さを完全に失っていた。そして、恐怖と焦りに支配された人間には往々にして不運ばかりが巡ってくる。
「……あっ!」
焦る余り、再度スカートの裾を踏んづけたグレッチェンはつんのめり、今度こそ転倒してしまった。
すぐに起き上がらなければ、と立ち上がろうとするが、右足首に力を入れた途端に激痛が走り、その場に蹲る。
「……たすけて……」
誰に言うでもなく、いや、この場にいない人へ向けて無意識に助けを求める。だが、その直後、不穏な気配を察知し、振り返ったグレッチェンが見たものーー
クラリッサがグレッチェンめがけて、ナイフを振り下ろそうとしていたところだった。
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