第23話 煩悩コントロール(11)

(1)


 --時、同じ頃ーー



『お酒を飲みすぎて気分が悪くなってきたみたい』と、のたまうキャロラインを大広間から連れ出し、シャロンは休憩室まで付き添っていた。


 一刻も早くグレッチェンの元に戻るいい機会だと、使用人にキャロラインの身を預けようと思ったのだが、やはりというべきか、キャロラインは意地でも離れようとしない。

 今にも転んでしまいそうな足取りの彼女を支えながら、『休憩室』の札が下がる部屋の前に辿り着く。そこで不可解な点に気付いた。

 

 何故、扉が開きっ放しになっているのだろうか??


 部屋の中を覗き込んでみる。誰もいない。

 先にこの部屋を使っていた者が、不用心にも扉を閉め忘れてしまったのか??


「……マクレガーさん……」


 キャロラインがシャロンの身体に一段と密着してくる。薄々感じ取ってはいたが、酔いに任せて休憩室で縺れこもうという魂胆か。

 いくら人気がないとはいえ場所が場所であるし、何よりグレッチェンをずっと待たせている。

 さて、どのようにして誘いを躱そうか。シャロンの心中を知らないキャロラインは、胸元を誘うような手つきで撫で回してくる。


「やっと……、二人きりになれたわね……って、あら??」


 胸に摺り寄せた頬に固い物が当たり、キャロラインは不快そうに表情を歪める。すぐにそれの正体を探るため、上着の内ポケットをまさぐり出す。

 そして、それが何なのか理解した途端、キャロラインは短く悲鳴を上げ、内ポケットから反射的に手を引っ込めてしまった。 


「あぁ、レディに物騒なものを触れさせてしまいましたね。とんだ失礼を」

 そう言う割に、シャロンに悪びれる様子が一切見受けられない。

「なぜ、貴方はこんなものを……」


 信じられない、と言わんばかりに首をゆっくりと横に振るキャロラインは、先程とは打って変わり怯えきっている。


「決して治安が良いとは言えない歓楽街に、店だけでなく居も構えている身ですから。万が一に備えて自己防衛できるようにと携帯してましてね。つい、いつもの癖で上着のポケットにしまい込んでしまったのです。あぁ、勿論、警察にて適正検査を受け、これを所持できるよう許可を得ていますのでご安心を……」


 そこでシャロンは、突如として言葉を止める。


 開いた扉の影に隠れていたこと、キャロラインにしなだれかかられたことに意識が集中していて、今の今まで見落としていた。

 

 キャロラインを身体から引き離し、床に屈みこんで銀色のクロムウェルシューズを拾い上げる。

 子供の靴と見紛うくらいに小さなサイズ。間違いない、グレッチェンの靴だ。


 盛装時の女性の靴は通常、長いスカートの下に隠れてしまっている。服を脱がさない限り、目に触れる機会はほとんどないのに、なぜ彼が分かったのか。


 夜会に出掛ける準備中、母マクレガー夫人に『グレッチェンに履かせてあげて』と押しつけられ、自らグレッチェンにこの靴を履かせてあげたからだった。


 几帳面で潔癖なグレッチェンが、扉を開け放したまま部屋を出て行ったり、靴を脱ぎ捨ててそのままにしておくなどというだらしない真似は決してしない。

 特に、靴に関してはとても気に入っている様子だっただけに、意味なく雑な扱いをするなど到底ありえない。


 虫の知らせと言うべき悪い予感が脳裏で一気に駆け巡る。


 居ても立っても居られない。

 背後でキャロラインが批難混じりに叫ぶのも構わず、靴を手に、元来た道とは反対の方向へ、脇目も振らず走り出した。










(2)


 血に塗れた切っ先が眼前に迫る。

 グレッチェンは身を竦ませ、ぎゅっと固く目を瞑った。



 刃が肉に切り込んだ音が、確かに耳に届く。なのに、身体に痛みを全く感じない。

 痛みよりも恐怖心の方が勝り、感覚が麻痺してしまったのか。



 

 ------




 慣れ親しんだベルガモットの香りと僅かな汗の臭いが、ふわりと鼻先を掠める。同時に、息苦しいまでに全身がきつく締めつけられている。 


 嗅覚を擽られたことがきっかけで徐々に冷静さが戻ってきた。


 今自分が置かれている状況を確認するべく、おそるおそる目を開ける。

 涼しげなダークブラウンの瞳とすぐ目の前で視線がかち合った。



「……グレッチェン……。今だけは……、気安く触るな、と怒らないでおくれよ……」

 

 シャロンは、へたり込んだグレッチェンに合わせ、両膝立ちの姿勢で彼女を強く抱きしめていた。

 クラリッサの凶刃からグレッチェンを守るため、咄嗟に我が身を盾にしたのだ。

 

 相当走ってきたのか、シャロンは肩を激しく上下に動かし、ぜぇぜぇと息を切らしている。

 体力を使い切った様子のシャロンを呆然と眺めていると、あることに気付く。直後、見る見る内に頭のてっぺんから爪先にかけて、血の気がサーッと引いていく。



 シャロンの右肩ら辺、黒い燕尾服に赤黒い染みを作っているだけでなく、染みの範囲がどんどん広がっていく様をーー


「何故邪魔をするの!!!!!!」


 顔を真っ赤にさせて怒り狂うクラリッサは、再びナイフを固く握り直して二人に切り掛かろうとーー、したが、それよりも早くシャロンが懐から、キャロラインを脅えさせた物ーー、銃を抜いてクラリッサに突きつける。


「……女性に手荒な真似をしたくないが……、彼女をこれ以上害するつもりなら容赦しない……。レディ・クラリッサ、ナイフを大人しくこちらへ渡してもらおうか」


 普段と変わらない穏やかな口調であるのに、シャロンの声は異様なまでに冷たい響きが籠っている。

 切りつけられた箇所の出血具合と、銃を持つ手が微かに震えていることから、右肩の傷が本当は痛くて堪らないのだろう。

 それでも、苦悶の表情を浮かべながらも、シャロンは銃を下ろす素振りを一切見せようとしない。空いている左手は、庇うようにグレッチェンの肩を抱いている。


 銃を向けられてはさすがに手も足も出せないのか、ナイフをまだ手にしているクラリッサは奥歯をギリギリと噛みしめ、シャロンとグレッチェンを交互に睨みつける。


 このまま終わりのない睨み合いがいつまで続くのか。


 ピンと張りつめた糸を幾重にも重ね、自分達の周りをぐるりと取り囲んでいる錯覚を覚える程に、一秒たりとも気が抜けない緊張感が三人の間に流れた。







(2)


 銃を構えた右腕の角度が下がる。


「……くっ……」


 シャロンは小さく呻くと、グレッチェンの肩を抱く左手を後ろ手に、仰向けに倒れ込んでしまいそうな身体をどうにか支えた。


(……お義母様、せっかく仕立てていただいたのに申し訳ありません!……)


 右肩の赤黒い染みの範囲が拡がっているのに気づいたグレッチェンは、アンダースカートの膝辺りを両手で掴み、下履きのペチコートと共に勢い良く横へと引き裂いていく。

 グレッチェンのこの行動に驚いたクラリッサは、ナイフを三度固く握り直す。だが、即座にシャロンが銃口の角度を上げ直したため、あえなく動きを封じられてしまう。

 緊迫感が増した空気の中、グレッチェンは破ったスカートとペチコートの生地を傷口にきつく縛り付け、止血を行った。


「……すまない、グレッチェン……。ちょうど骨に当たる箇所だったからか、傷自体はそこまで深くはないのだが……、思ったよりも出血が……」


 疲労と傷の痛み、出血により、シャロンの顔面は蒼白で額には脂汗が滲んでいる。まさに満身創痍、といった体のシャロンに対し、遂にグレッチェンは感情を爆発させた。 


「シャロンさん!貴方、馬鹿なんですか!!危険を承知で凶刃の前に飛び出すなんて信じられません!!もしも刃が首に当たって頸動脈を切られでもしたらどうするんですか!!それこそ失血死は免れませんよ!!」

「ば、馬鹿とは何だ?!君ねぇ!それが助けにきた者への言葉かね?!」


 命がけで助けたにも関わらず、まさか罵倒されるとは思わなかったシャロンも、反射的に大声で言い返す。

 あわや言い合いになりかけたところで、「貴方に、もしものことがあったら……」と、グレッチェンは悲痛な面持ちで顔を俯かせた。


「グレッチェン……、その台詞、そっくりそのまま君に返すよ……」


 グレッチェンを安心させるため、痛みを堪えてシャロンは微笑んでみせる。が、すぐにクラリッサに向き直り、鋭い視線で見据える。


「貴方……、なぜこんな女を助けるの??確かに美しいけれど……、淫売の性悪女なのよ??」

 静かな怒りをつぶらな瞳に滾らせるクラリッサの言葉に、シャロンは違和感を覚えた。

「シャロンさん……。クラリッサさんは、私のことをキャロラインさんだと思い込んでいるみたいなんです……」

「何だって?!」


 グレッチェンは事の経緯を、要点をかいつまんで手短に説明した。


「……要するに、君はとばっちりで殺されかかったのか……」

「……はい。ですが、そんな間違いを犯すまでに彼女は精神的に追い詰められていたのでしょうが……」


 そうは言うものの、グレッチェンも何故クラリッサが乱心してしまったのか、皆目見当がつかない。


「……思い当たる節があるにはあるのだが……」


 今度はシャロンの方が、クラリッサとキャロラインの間に起きた一悶着を語り出す。


 たかだかドレスにワインを引っかけられたくらいで、あの淑やかで大人しげな令嬢が恐ろしい殺人鬼へと変貌するものなのか。二人の中でどうにも疑問が払拭しきれない。

 けれど、その些細な諍いが妹への憎悪と言う名の、長年に渡り蓄積された膿にメスとして切り込んでしまったのかもしれない。


 しかし、どんなに理由を推し量ったところで、真実はクラリッサのみが知り得ること。それよりも、どうやってこの場を切り抜けるのか。


 二人が考えを巡らせているところへ、思わず顔を顰めてしまうような甲高い悲鳴。廊下中に響き渡る大きな声で、猿のようにキャーキャーと涙交じりに叫び散らしている。


(あぁ……、これは益々もって面倒な事態になり兼ねないな……)


 盛大な悲鳴を上げているのは、シャロンの後を追いかけてきたキャロラインだった。

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