第16話 煩悩コントロール(4)

(1)


 閉店後、シャロンは洒落た雰囲気の小さな酒場に一人でいた。


 彼が馴染みにしている酒場は二軒あり、内一軒はラカンターだ。しかし、あの店の、時に喧しくもある賑やかさや、何かと口煩いハルの存在は気が滅入っている時には正直応えてしまう。

 だから、今夜みたいに一人でゆったりと飲みたい時は、十名足らずで満席となる手狭さだが、隠れ家を彷彿とさせるこの店に訪れていた。

 黒檀で作られた五角形のカウンター席に腰を下ろし、スコッチのグラスを傾ける。琥珀色の液体がグラスの中で微かに揺れる様を眺めながら、シャロンは今日のグレッチェンについて思い出していた――







 クラリッサと共にグレッチェンが奥へ入ってからしばらくのち、二人は店内に戻ってきた。

 クラリッサはカウンター越しに項垂れた頭を更に低めて、聞き取りづらい程の小声で礼を述べると玄関扉へ駆け寄っていく。交渉不成立か。クラリッサの背中が扉の向こう側へ消えていく。

 扉が閉まるのを見計らい、隣に並ぶグレッチェンを見下ろし、ぎょっとする。顔色が異様に悪い。悪すぎる。


「グレッチェン、戻ってきたばかりで何だが、少しだけ奥の部屋へ行こう」


 グレッチェンの真っ青な唇が薄く開き――、かけたが、数秒後、諦めたように閉じる。代わりに無言で大人しく頷く姿が、アッシュと呼ばれていた頃を思い出させた。古い記憶を振り払うように、少し強めに奥の扉を開ける。

 つい数分前まで座っていただろうローバックチェアに座らせると、シャロンは立ったまま机上に手をつき、グレッチェンに尋ねた。


「君の、その顔色の悪さは今回の依頼と関係ありそうだな。一体、どんな内容だったんだ??」


 些細な目線や唇の動きを見逃すまい、と、薄灰の双眸を覗き込む。  

 『仕事』を引き受けた際、シャロンに依頼内容を全て包み隠さず報告するという約束を、二人は交わしている。

 基本的に、シャロンはグレッチェンの『仕事』に関して口を挟んだりしないが、グレッチェンの様子がひどく引っ掛かったため、珍しく彼女を問い質したのだ。案の定、グレッチェンは徐に目を逸らした。それでも尚、シャロンは彼女を見つめ続ける。

 やがて、言い逃れはできないと観念したのか、グレッチェンは重く頑なった唇をどうにかこじ開け、クラリッサから受けた依頼内容を報告してくれたのだった。

 

「まさかと思うが……、クラリッサ嬢と妹君、彼女の婚約者との関係を、かつての私とマーガレット、君との関係が重なって、それで顔色が悪い、のか??」

「…………違います…………」


 即座に否定されたが、消え入りそうな語気から察するに、嘘だとシャロンは確信した。だが、あえてそれ以上は追及しなかった。


「……まぁ、その手の依頼は君の信条に反するし、断って正解だった。それよりも、今日はもうアパートに帰って休みなさい。貧血でも起こしたのかと思うくらい、真っ青な顔色をしている」

「いえ、私なら、大丈夫です……!」

「その顔色は誰の目から見ても大丈夫そうには見えないがね。仮にも接客を生業としている以上、そんな青白い顔で客の前に出るなど失礼に当たる。怪我の痛みもまだ残っているだろうし、今日はゆっくり休んで明日からまた元気に働いておくれ」


 グレッチェンは釈然としない様子だったが、反論の余地もなかったため、「……分かりました。では、お言葉に甘えて、帰らせて頂きます」と、答えた。

 それから間もなくして、グレッチェンは店を後にしたのだった。





(2)


 カウンター席の後方――、やや低めの、白木で作られた八角形のテーブル席があり、そこの一席に座っている若い女性が先程からしきりにシャロンの背中に熱い眼差しを送り続けている。

 シャロンも最初から視線に気づいてはいたものの、今夜は女と戯れる気分ではなかったのであえて無視を決め込んでいた。それでも、女は粘り強く彼に視線を送り続けてくる。

 背中が焼けそうな熱視線にとうとう根負けし、女性を振り返る。アッシュブロンドの長い髪に薄灰の瞳、どことなくグレッチェンと似ていた。

 しかし、ワイングラスを傾け、自信ありげに微笑む姿はどう見ても赤の他人でしかない。グレッチェンの場合、薄っすらと控えめにしか笑わない。


 シャロンはグレッチェンの笑顔を見るのが何よりも好きだった。

 出会った頃の、笑っているのか泣いているのかよく分からない、下手な笑い方しかできなかった頃を知っているだけに、ちゃんと笑えるようになったのが我が事のように嬉しかったからだ。


 だからこそ、今日のように過去が原因で傷つく姿は見るに耐えない。

 彼女は今も尚、過去に苦しめられている。


 彼女と共謀し、実の父と姉の命を奪わせたのはまぎれもなくこの自分。

 それどころか、今も彼女に罪を犯させ続けている。


 誰よりも愛おしい存在にも拘わらず、自分は彼女を傷つけてばかり。

 そんな男が、彼女を愛することも彼女から愛されることも許される筈などない。

 自分に出来ることは、彼女の特異体質を治すべく研究に取り組むことくらいだ。 

 シャロンは微笑む女に向けて、にこりと爽やかに微笑んだ。


「レディ、宜しければ私と一緒に飲みませんか??勿論、何か飲み物も奢りましょう」

 女はパッと顔を輝かせ、すぐさまシャロンの隣の席に移動してきた。

「ミスター、貴方のような素敵な紳士とご一緒できるなんて嬉しいわ」

「こちらこそ、大層美しい淑女と時間を共に過ごせるなど光栄の極みですね」



 そして二人は、どちらからともなく身を寄せ合い、酒場から真夜中の歓楽街の雑踏の中へ消えて行く。流されるまま、『お互いに名前も素性も名乗らない』ことを条件に、シャロンは女性と連れ込み宿にて抱き合った。


 女性は、シャロンの身体の下で情事に夢中になっているように見せかけ、自らも快楽を与えるのを忘れない余裕を持っている。嬌声すらも演技を疑いたくなる程わざとらしく、褪めた目で煽り続けた。身体の熱が上がっていくにつれ、頭はどんどん冷静さを取り戻していく。

 実に滑稽だと、女に悟られないよう自嘲気味に嘲笑う。


 行きずりの適当な女を抱くのはいとも容易いのに。

 愛しい女には指一本たりとも触れることができないのだから。

 それどころか、壊してしまうかもしれない恐れから、触れるべきではないとすら思う。臆病で屈折した想いの捌け口がこの有り様だ。

 終わりを迎えると、早々に女の身体から離れ、その隣に身を横たえた。


「随分と淡泊なのね」

 女は隣で頬杖をつきながら話しかけてくる。

「ねぇ、ミスター。貴方、他に好きな女性がいるのでしょう??」

「まさか。今の私が好きなのは貴女だけですよ」

「うふふふ、本当に口が上手な人ね。でも、案外嘘は下手だわ」


 シャロンは返事の代わりに、肯定と否定とも取り難い、曖昧な薄ら笑いを浮かべた。だが、女も含み笑いを浮かべて、からかうように質問を重ねてくる。


「好きな女性を抱けない代わりに私を抱いたのでしょう??別にいいのよ、私も恋人と別れたばかりで寂しさを紛らわせたかっただけだから。お互い様」

「寂しいと言う割には未練がなさそうですね」


 言われっぱなしなのも癪なので、少々意地悪く切り返してやると「えぇ、そうかもしれないわね。だってあの人、見た目こそ良かったけれど、堅物で全然面白味のない人だったんですもの。凡庸な姉の婚約者だったから良く見えただけね。姉に返してあげようかとも思ったけど、さすがに同じ家の娘との婚約を二度も破棄するような人は両親が嫌がるだろうから、そのまま捨て置いたわ」と、必要以上にぺらぺらと身の上を語ってくれた。


 よく喋る女だ。見た目こそ美しいが、こんな軽薄で浮ついた馬鹿女と、少々生真面目が過ぎるものの、賢く慎み深いグレッチェンが似ていると思ってしまった己の愚かさを恥じ入りたくなった。同時に、どこかで聞いた話だと気付く。


 もしかすると、この女、昼間店に訪れたクラリッサの妹ではないだろうか??


「おやおや、実の姉上に対して随分な言いようですね。そのような言葉、貴女のような美しい女性が口にするには似つかわしくないですよ??そんなにお嫌いなのですか??」

「あら、嫌だわ、私ったらつい……。でも、本当に残念な女なのよ。赤毛と雀斑が目立つのが嫌なのか、いつも俯いて自信なさそうにして……。見ていていつも苛々してしまうんです」


 一か八かでかけたカマ(と呼ぶには少々弱いが)に女が気持ちいいくらいに引っ掛かってくれたことで、やはり彼女がクラリッサの妹だと、シャロンは確信したのだった。

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