第17話 煩悩コントロール(5)

(1)


 ――時は進み、明け方近く――



『家の者の目を盗んで屋敷を抜け出してきたので、夜明け前には帰りたい』という女性の言葉に従い、待合宿を出て行く。

 まだ五時前だというのに、真夏の早朝の空はとっくに白み始めていた。もう少し早く出れば良かったかもしれない、などと思いながら、辻馬車の停留所がある大通りまで女性を送り届ける。

 女性は相当に焦っていたのか、停留所に向かう道中も馬車に乗り込む時も終始無言。それどころか、別れ際の挨拶すらろくに交わしもせず、そそくさとシャロンの目の前から去って行く。


 拍子抜けする程あっけない別れ。 だが、もう二度と会う事もない行きずりの関係なら、これぐらいが丁度いい。

 馬車の扉が閉まるのを見計らい、背を向ける。馬車が動き出すのすら待たず、元来た道を再び歩き出す。

 停留所から薬屋は、西の方角へひたすら真っ直ぐ歩けば三十分もかからずに到着できる。

 しかし、酒がまだ身体に残っている上に、ろくに寝ていない状態だと一定時間歩き続けることが体力的に少しきつい。いくら若く見えるとはいえ、彼も三十三歳。決して若くはない。自然と家路を辿る足取りも重たくなってくる。


 足を引きずるようにして店に向かう途中、反対側の通りからある人物がこちらに向かって歩いてくるのが目に留まった。その人物もシャロンに気付くと、遠目からでもはっきり分かる程に表情を歪めた。

 

 あぁ、よりによって今一番会いたくない相手と鉢合わせてしまった。


 無視するのもどうかと思い、すれ違いざまに一声かけようとしたところ、「朝帰りかよ。ったく、昨日の今日でよくやるよな、本当懲りない奴」と早速痛烈な嫌味を貰い受けてしまった。


「お前こそ、いつもは店で昼近くまで眠りこけている癖に、珍しく早起きじゃないか。女の部屋にでも泊まっていたのか??」

「あ??ちげえ、店に置いてある着替えが減ってきたからアパートに取りに行くだけだ。お前と一緒にしてくれるな」


 シャロンが『お前』呼ばわりする唯一の人物――、ハルは鬱陶しげに鼻を鳴らし、シャロンの嫌味を適当にあしらう。シャロン同様、彼もまともに睡眠を摂っていないのか、金色掛かったグリーンの瞳が妙にとろんとしていた。元が垂れ目がちな甘い顔立ちのせいか、眼光の鋭さが消えると意外に可愛らしく見える。


「なぁ、シャロン。お前はいつまであいつを待たせるつもりなんだ??お前だって、あいつのことを憎からず想っているんだろ??だったら、いい加減応えてやれれよ」

「……私は、彼女の気持ちに応えたくても応える訳にいかないんだ」

「なんでだ??あいつの体質が原因か??だが、抱く分には問題はない筈だろう??」

「……そんなんじゃない……。私には、彼女を愛する資格なんかないからだ!」


 語気を荒げ、自分よりも一〇㎝以上背の高いハルをきつく睨み上げる。ハルは気分を害すどころか、シャロンを憐れむように見下ろす。


「まぁ、人の恋路はなんとやらと言うし、俺が口出したところで決めるのはお前らだしな。朝っぱらから余計なこと言って悪かった」

 ハルはシャロンの肩をポンと軽く叩いた後、最後にこう言い添える。

「俺はお前が心底羨ましいんだよ。望みさえすれば、互いに愛し合える女がすぐ傍にいる。……こっちはどんなに会いたいと切望しても、二度と会うことすら叶わないからな……」

「…………」 


 シャロンは、去っていくハルを思わず引き留めようとした――、が、できなかった。広い背中から、彼の決して癒えることのない深い哀しみが滲み出ていたから。


「お前は……、未だにアドリアナが忘れられないんだな……」


 ハルは時折、時間を確認する振りして、懐中時計の蓋の裏側を眺めている。そこには八年前に死んだ恋人の写真が貼られていることを、シャロンは知っていた。

 彼が自分とグレッチェンとの仲を案じるのは、自身と死んだ恋人とを重ね合わせているからだろう。


 だが、シャロンはグレッチェンへの想いを成就させるつもりは毛頭ない。誰にも理解されないことだと重々承知の上だ。


 一気に気が重くなり、ついでに足取りも重くなる。一歩進むだけでもとてつもなく体力を要しているように感じながら、シャロンは引き続き家路を辿った。








(2)


 午後十二時を過ぎたというのに、店に姿を現さないシャロンを起こすため、グレッチェンは店の二階、彼の私室へと足を運ぶ。

 

「シャロンさん、いつまで寝ているのですか。もうすぐお昼の一時です。いい加減起きて下さい」


 扉を叩き、声をかけるが返事は、ない。

 こういう場合は、徹夜で研究をしていたのか、朝まで飲んでいたか、もしくは――、性懲りもなく女性と戯れていたか。

 寝坊の理由が研究ならば、むしろこのまま寝かしておいてあげようと思うが、残りの二つであれば容赦なく叩き起こすと決めている。グレッチェンは勢い良く扉を開け放った。

 相も変わらず、殺人的な部屋の汚さときたら!医学書や薬学書が机の上や書棚だけでなく、床の至る所に散乱しているせいで足の踏み場がない。

 衣類や酒瓶が転がっていないだけ数段マシだが、散らかり放題な部屋に軽く眩暈すら覚えてしまう。また近日中に部屋の掃除を強制遂行しなければ……、と足元に拡がる本の山脈を踏まないよう慎重に避けながら、ベッドの傍に近づいていく。


 ベッドに寝転がるシャロンは部屋着ではなく、ワイシャツに薄茶色のベストと揃いのズボン、窮屈だったのかカラータイは外しているものの、昨日の服装のままじゃないか。つまり、飲みに出歩いていた訳だ。その証拠に、香水の匂いと共に酒の臭いも漂ってくる。

 

 ふと、シャロンが愛用するベルガモットの爽やかな香りとは明らかに違う、甘ったるいヴァニラの香りが鼻先をくすぐった。

 酒を飲んでいただけでなく、女性とも遊んでいたのか。

 グレッチェンは薄い唇を真一文字にきゅっと引き結び、黙ってシャロンの寝顔を食い入るように見つめた。

 

 グレッチェンの複雑な心中など知る由もなく、シャロンは規則正しい寝息を立てて眠りこけている。

年相応に小じわが目元などに浮かんでいるが、童顔で髭が非常に薄く、不摂生な生活を送っている割に女性顔負けのきれいな肌質のお蔭か、寝顔だけ見ると二十代半ばの青年に見えなくもない。

 そう言えば、ずっと前に顧客の娼婦が『シャロンさんのお肌つるつるー!ねぇねぇ、触ってもいい??』とせがんできたため、客の気が済むまで顔を触らせていたような。途端に、言いようのない怒りが沸々と沸き起こり、胸の中で燻り始める。

 

 紛れもない嫉妬心――、ただし、グレッチェンはこの感情が嫉妬だとは思い至らず、気持ちよさそうに眠るシャロンをただ睨み下ろすしかできなかった。

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