第14話 煩悩コントロール(2)
(1)
――遡ること、一日前――
「お前がシャロン・マクレガーか??」
「いかにも、シャロン・マクレガーはこの私ですが」
質の良いフロックコート、同じ生地であつらえた揃いの山高帽を被った青年が入店、慇懃な口調でシャロンに問うてきた。青年は品定めするかのような目でシャロンを見下ろし、ふん、と軽く鼻を鳴らす。
青年は身なりから察するに、裕福な中流階級以上の家柄なのだろう。そんな身分の者が、昼日中から娼婦を主な顧客とする薬屋に一体何の用があるというのか。
グレッチェンは一抹の不信を抱きつつ、ひとまずは男とシャロンの動向を静観する。
「シャロン・マクレガー。カサンドラ・ミルフォードという女性を知っているだろう??」
「あぁ……、カサンドラ・ミルフォード嬢ならば、よく存じておりますよ。豊かな亜麻色の巻毛が大変美しい、とても気さくで話しやすい女性ですね」
青年は自分で尋ねておきながら、シャロンの答えに対し、徐に渋面を浮かべる。一方で、微笑を保つシャロンのダークブラウンの双眸に、青年への嘲りが見え隠れし始める。
シャロンはどんな女性にも平等に優しさ示すれど、男性に対しては時折、見下した視線を送りつける時がある。どうやら、彼の中でこの青年は見縊ってもいい相手という認識が生じたらしい。褪めた視線の意味を理解した青年も怒りで目を吊り上げる。
「僕はカサンドラの婚約者だ!婚約者がいる女性に手を出すなど、何たる不届き者めが!!」
シャロンはさも面倒臭そうに眉を顰め、嫌味とも取れる程の(実際、嫌味のつもりだろう)極めて冷静に話しだす。
「確かに、私はカサンドラ嬢と一カ月程の間、男女の関係を結んでいました。しかしながら、この交際は元々彼女の方から持ちかけてきたのです」
「何だと?!嘘をつくんじゃない、カサンドラに限って私を裏切るなど……」
「嘘ではありません。親によって決められた結婚をする前に、一度でいいから恋をしてみたい、と打ち明けられ、その恋のお相手として私が選ばれたのです。いわば期間限定の『恋人ごっこ』に興じていただけのこと」
何が、恋人ごっこに興じていただけ、だ。
グレッチェンは、シャロンの発言にひどく鼻白み、内心青年の方に同情心を抱いていた。当の青年は、頭から噴煙が上がりそうな程、怒り心頭である。至極当然の反応だろう。
「約束通り、一か月後には後腐れなく別れたのですから、何の問題もないでしょうに」
「あるに決まっているだろう!大ありだ!!」
「おや、そうですか。では、出るところに出て訴えでもしますか??世間に明るみに出れば、家名に傷がつくでしょうに。貴方の家だけじゃない、カサンドラ嬢の家にもね。結婚前の、一時の軽い火遊びだと思って、黙って見過ごした方が後々恥をかかなくて済むと思いますよ??」
よくもまぁ、いけしゃあしゃあと自分を正当化できるものだ。
ここまで開き直られては、いっそ清々しささえ覚えてくる。
グレッチェンは、この、痴情のもつれによる、とてつもなく下らない諍いが一刻も早く終わらないものかと、ひたすら壁時計の秒針を眺めてやり過ごそうとしていた。
しかし、怒り狂った青年がシャロンの胸倉に掴みかかってきたのを視界の端で捕えた瞬間、考えるよりも身体の方が動くのがうんと早かった。むしろ、身体が勝手に動いたと言っても過言ではなかった。
我に返った時には、グレッチェンは顔の左半分を両手で覆いながら、床の上に倒れていた。咄嗟に、シャロンと振り下ろされる青年の拳との間に身体を素早く割り込ませ、シャロンの代わりに顔面を思い切り殴られたのだ。
(2)
事の顛末を聞き終えると、ハルは黙って煙草の吸殻を灰皿に強く押しつけた。
若かりし頃――、『歓楽街の狂犬』と恐れられていた頃を思い出させる、世にも凶悪な形相を浮かべて。
「……前言撤回していいか??今度、あいつを一発殴らせろ」
「……そう言うと思いました……」
「あいつは正真正銘、底抜けの大馬鹿野郎だ。お前もあんな男、庇う必要なんか一切なかったのに」
「いえ、庇うつもりはなかったのですが……、勝手に身体が動いたんです」
何だそりゃ、と、呟くと、ハルは新たに煙草を咥え、火を点ける。
「それに、故意ではないにせよ、無関係な人間かつ女性である私を殴ってしまったので、その男性もそれ以上は何もせず店から退散してくれました。そう思えば、殴られ損ではなかったかもしれません」
グレッチェンは何とか笑顔で取り繕おうとしたが、傷が痛んで逆に顰め面を見せてしまった。
「あぁ、傷が痛むんだろ??無理して笑わなくていい、見るも痛々しいぞ。しかし、痣だけで済んでまだ良かった。下手したら、鼻の骨や歯の一、二本は折れていたかもしれん。いくら男の格好してるからと言って、お前は女なんだ。顔は大事にしろ」
「……はい……」
「にしても……、いくらお前の恩人とはいえ、あいつは女遊びと自堕落が少々行き過ぎている」
この場にいないのをいいことにシャロンを詰るハルを、グレッチェンは眉尻を下げて見つめるしかない。残りのレモネードを一気に飲み干すと、ハルに礼を述べ、立ち上がる。
「もう行くのか??」
「はい。あまり長居するのは開店準備の邪魔でしょうし。それに……、シャロンさんに、いつまで油を売っているのかと思われてもいけませんから」
「あんな馬鹿、放っときゃいい。つまらん女の尻を次々と追っかけ回すんじゃなくて、すぐ傍で献身的に尽くすお前さんにいい加減目を向けろってな。ったく、いつまでこんないい女を待たせるつもりだか……」
ハルは肩を竦めて軽く笑い、見送りがてら玄関の扉を開けてくれた。
「あの人が、私なんかを相手にすることは絶対に有り得ませんよ。あの人が好きなのは、こんな貧相な体格の陰気な小娘ではなく、豊満な体格の朗らかな女性ですから」
例えば、自身の姉であり、彼の死んだ婚約者、マーガレットとか……。
マーガレットは当時、『社交界の華』と謳われ、数多の男性を虜にしてきた程の美貌の持ち主だった。
顔を合わせれば、罵倒されるか暴力を振るわれるかされていたグレッチェンにとって、マーガレットは父レズモンド博士に次いでただただ恐ろしいばかりの存在だが、反面、彼女の美しさには密かに憧れすら抱いていた。
もしも、自分がマーガレットと同じくらい美しければ。
父が待望していた男児ではなく、女児に生まれた身であっても、家族から憎まれはしなかったかもしれないし、愛してもらえたかもしれない。
マーガレットが羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。
なのに――、シャロンは自分のために、直接的でなかったとはいえ、マーガレットをその手に掛けたのだ。
涼しげで端正な優男のシャロンと、目鼻立ちのはっきりした華やかな美貌を持つマーガレットとはまさに美男美女というべく、似合いの連れ合いだった。
ずっと後になって知ったことだが、中流階級のシャロンと上流階級のマーガレットの交際は当初、博士から猛反対を受けていたらしい。結局、彼の優秀さが博士の目に敵い、婚約まで漕ぎつけられたのだが、そうまでしてシャロンはマーガレットとの結婚を望んでいたのに。
自分は、彼の医学研究者になりたいという長年の夢を奪っただけでなく、愛する女性の命まで奪わせた。そんな自分に彼を愛する資格も、彼から愛される資格もある筈がない。
グレッチェンの薄灰の双眸の奥に、憂いの陰が色濃く滲む。
「ハルさん。私は……、あの人にとって役に立つ人間でいられるなら、それで充分なんです」
「……そうか……」
ハルはそれ以上何も追及してこなかった。
さりげない大人の対応をありがたく思いながら、「では、失礼します」と軽く頭を下げ、石畳の歩道に降り立つ。
行き道と比べて若干陰りだした陽光を浴びながら、グレッチェンは薬屋への帰路を辿った。
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