第11話 Lies and Truth(11)

(1)


 ドハーティを殺害した後、女は足早にその場を立ち去り、人気の少ない裏通りをあてもなく闊歩していた。すれ違う酔っ払いからヒュウッと卑猥な意味を込めた口笛を吹かれたりしたが、それも無視してひたすら歩き続ける。

「姉ちゃん、いくらだ??」

 背後から見知らぬ男にいきなり強く肩を掴まれ、身構えた、その時。

「レディに対して、もう少し紳士的な態度で臨むべきじゃないかね」


 女にとって、最も耳馴染みのある声が聴こえてきた方向を注視する。そこには、フロックコート姿のシャロンが佇んでいた。男は、シャロンの口調と纏っているコートの質の良さから上流の人間だと勘違いし、潔く女を解放するとすごすごと大人しくその場を離れていく。


「レディ、貴女を一晩買いたいのですが……、おいくらでしょうか??」

 尚も気障な口振りを崩そうとしないシャロンに、女――、街娼に扮したグレッチェンは呆れながら答える。

「……ミスター、私は高いですよ」

「そうか……、それは残念だな。では、こうしよう。私は君を抱きはしないが、一晩話し相手になって欲しい。お茶と軽い菓子くらいは用意する。決して悪くない話だろう??」

 子供じみたシャロンの得意げな笑顔に、グレッチェンはほんの少しだけ、ごく僅かに表情を緩めてみせる。

「えぇ、ミスター。それなら格安の値段で付き合いましょう」


 グレッチェンの返事にシャロンは、「これで決まりだ」と、彼女の華奢な手を引き、そのまま店へと向かった。


「シャロンさん、やればできるじゃないですか……」

 店の二階、シャロンの私室に入るなりグレッチェンは、足の踏み場がない程散らかっていた部屋の中が綺麗に片付いていることに、思わず目を見張った。

「レディを出迎える為に頑張ったんだぞ??すぐにお茶を淹れるから、そこの長椅子に座って寛ぐといい」

 シャロンに促されるがまま、海老茶色の合皮で作られた長椅子に腰掛ける。扉の前で足を止めていたシャロンは、思案気な様子でグレッチェンの傍へ近づいてきた。

「グレッチェン、やっぱりお茶を飲む前に身なりを整えようか」


 シャロンは、グレッチェンが被っていた黒髪の鬘を取り外すと、押し潰されてくしゃくしゃに乱れたアッシュブロンドの短髪を手串で丁寧に梳き始めた。そうして粗方髪を整えてやると、一旦下の階へ降りていき、今度は濡らしたガーゼを手に私室に戻ってきた。


「この、崩れてしまった化粧も落とさないと……」

 シャロンは、グレッチェンの肌を傷つけないように優しく手を動かしながら、少しずつ化粧を拭き取っていく。

「……これで良し。あぁ、やっぱり君は素顔の方がずっと綺麗だよ」

「よくもまぁ……、そんな歯が浮きそうな台詞を恥ずかしげもなく言えますね……」

「私は思ったことを素直に言ったまでさ。何度でも言う。君は自分が思っている以上に綺麗な女性だよ」

「…………」


 度重なるシャロンの褒め言葉に、グレッチェンは頬を赤らめ、俯かせた。

 よく見ると唇をきつく噛みしめている。恥ずかしいというよりも込み上げてくる感情を、必死に耐えるような表情を浮かべていた。


「……私は、ちっとも綺麗なんかじゃない!だって……、私の血は、人を死に追いやるおぞましい毒物だもの……」

「グレッチェン、それは違う。君は、残酷な実験の被害者なだけだ。おぞましいのは彼の行いであって……」

「なのに……、貴方は私を救い出すために、約束されていた、輝かしかったであろう人生と、長年抱いていた夢を全て捨てた。それこそ、綺麗でまっさらだったその手を、大勢の血で汚してしまった……」


 大切な物を扱うように、シャロンの掌を両手でそっと包み込む。

 その姿は余りに幼気で、シャロンは彼女をきつく抱きしめてやりたいという強い衝動に駆られた。同時に、抱きしめた瞬間、いとも簡単に壊れてしまうのではと怖くなり、結局何もせずに踏み止まった。


「……昔の話は、しない約束だろう??」

「……すみません……」

「……私が君を救うために夢を捨てたことも、人知れず手を汚したことも、君の身体を治す研究に人生を賭けていることも、全て私自身の意思だ。君が責任を感じる必要は一切ない」


 いつになく突き放した冷たい言い方をしている、と、シャロンは心中で自嘲する。しかし、紛れもない彼の本心でもあった。


「グレッチェン、君は少し疲れているんだ。鎮静効果のある茶を淹れるから、それを飲んだらベッドですぐに眠るといい」

「……いえ、お茶を頂いたら、すぐにアパートに帰ります」

「駄目だ。今何時だと思っている??遠慮しなくていいから、今夜は一晩泊まっていきたまえ。あぁ、心配しなくても君に手を出す真似は絶対にしない……、何だね??私を信用していないのか??」

「……いえ、その……」

「はっきり言いたまえ」

「……ベッドは一つしかありませんが……、まさか、一緒に寝るとかでは……」

「そんな訳ないだろう??私は長椅子で寝るから。ひょっとして……、昔みたいに添い寝して欲しいのかね??」

「趣味の悪い冗談はやめてください」


 途端にグレッチェンは眉根を寄せ、たっぷりと軽蔑を込めてシャロンをきつく睨みつけてきた。いつもの調子に戻ってきた――、安堵したシャロンは再び階下に降りていき、今度こそ紅茶を淹れる準備を始めた。







(2)


 暖炉に石炭をくべ、火を熾す。

 音もなく静かに燃え上がる炎をじっと眺めながら、シャロンは過去に思いを馳せていた。





 九年前――、実の父レズモンド博士からの人道に外れた虐待を受け続けたことにより、血液を始めとする体液が毒物と化してしまった哀れな少女アッシュ。

 その特異体質を調査するべく、不本意ながらもシャロンは博士の「実験」を手伝う羽目になってしまった。


 博士とシャロンはアッシュの体液を採取した後、どこからか連れてきた下層民を使い、何度となく毒性反応を調べた。何人もの命を犠牲にした数々の実験で分かったことは――


 アッシュの血液は皮膚に触れるだけなら無害だが、口に含む等体内に取り込むとたちまち死に至る。1ccに満たないごく僅かな量の血液を直接口にしても、食べ物や飲み物に混ぜても殺傷能力は変わらなかった。

 更に驚くべきことに――、アッシュの血液に含有される毒で死んだ者達の身体を解剖した結果――、毒性反応が全くと言っていい程検出されなかったのだ。皮膚、髪、粘膜、血管、内臓、体内に残された老廃物や体液、全てくまなく調べ尽くしても何も出てこなかった。

 これにはレズモンド博士もシャロンも首を捻るばかりであった。確実に人を殺傷できるばかりか、証拠も残らない毒など常識では有り得ない、と。


『こうなったら、アッシュ自身を解剖して調べてみようか』


 博士の、身の毛もよだつ発言。シャロンは当然の如く猛反対した。

 二人は激しい口論を繰り広げた末、博士はシャロンにマーガレットとの婚約は解消、即刻屋敷から出て行くように言い渡したのだった。


 しかし、その夜、人々が寝静まった真夜中に原因不明の火災が発生、屋敷は全焼。レズモンド博士と娘マーガレット、その他使用人の多くが燃え盛る炎の中で命を落としてしまったのだ。屋敷を出て行く準備の最中だったシャロンは火事にいち早く気付き、アッシュを連れ出して無事に逃げ延びた。


 それと言うのも、屋敷に火を放ったのは他でもない、シャロンとアッシュだったから。博士の魔の手から、アッシュの身を守りたいがための、苦渋の決断であった。


 火事で焼け出されたことがきっかけで、アッシュの存在は初めてレズモンド家の親族に知れ渡ったものの、彼らは彼女の処遇をどうすべきか、ほとほと頭を悩ませた。博士直系の血筋であれど、彼女の存在を世間に公表することにより、まことしやかに囁かれていた良からぬ噂は真実だったと認めざるを得なくなる。

 家名に傷をつけたくない一心の親族達が出した結論――、アッシュを秘密裏に精神病院に送り込み、これまで通り存在を世間に隠し通す、ということだった。

 誰も彼もが世間体と我が身の保身しか顧みず、哀れな灰かぶり姫に手を差し伸べようとしない。シャロンは心底失望と憤りを覚えた。だから、アッシュを自分に引き取らせて欲しいと願い出たのだ。


 駄目で元々、一蹴される覚悟での申し出だったが、意外にも親族はあっさり承諾してくれた。体の良い厄介払いができるからだろう。

 ただし、しっかりとシャロンとアッシュの双方に幾つか交換条件を付けての上でだったが。


 アッシュへの条件は、名を変え、レズモンド家の娘であることは忘れて別の人間として生きること。シャロンへの条件は、アッシュの素性を他者に決して口外しないこと、大学を辞めて故郷であるこの街へ帰ること。


 一晩悩んだ末にシャロンはこの条件を飲み、アッシュ改め、グレッチェンと共にこの街へ戻った。そして家業の薬屋の跡を継ぎ、現在に至る。


 自分の為にシャロンが手を汚しただけでなく夢も未来も捨てたことに、グレッチェンは責任を感じているが、シャロン自身は不思議と後悔などしていなかった。

 もしもあの時、博士の指示に従い、彼と共にグレッチェンを解剖などしていたら、人の姿をした悪魔に成り下がってしまっていただろう。そんな者に、医者となったところで命を救う資格などある筈がない。


 ところが、研究の為に集めている書物はどれも手に入り辛い貴重なもので高値だから、自分に関わるもののお金は自分で工面したい――、と、シャロンの反対を押し切り、グレッチェンは自分の血液を使った毒を売ることを始めてしまったのだ。

 グレッチェンを救うつもりで始めた研究が、新たに彼女を苦しめる材料となってしまっている。結局、自分は未だに彼女を真に救えてなどいないじゃないか!!


 カタカタ、カタカタカタ……


 暖炉で温めていたケトルの蓋が、沸騰した湯の圧によって持ち上がり、けたたましく音を立てる。


 どうにもならないことを考えるのはやめにしよう。

 それよりも、彼女が少しでも心地良く眠れるよう、温かいお茶を用意してあげよう。


 シャロンは軽く溜め息を吐くと、ケトルの湯をティーポットの中へ注いでいった。

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