第8話 Lies and Truth(8)

 シャロンが少女アッシュと交流を始めてから、早二カ月近くが経とうとしていた。


 人々が寝静まったのを見計らい、自室に鍵をかけ(万が一、マーガレットが忍んできた時を想定して)、少女の部屋へと訪れる。

 まるで秘密の恋人との、人目を忍ぶ逢瀬みたいだが、実際は少女に字の読み書きを教えたり、他愛もないお喋りに興じているだけ、至って健全なやり取りを交わしているだけである。

 少女は字を教え始めた途端、水を得た魚のようにどんどん吸収していき、シャロンが貸した本も次々と読破していった。元々賢い者が知識を身につけると、こんなに成長するものかと、シャロンは内心舌を巻いた。

 そして、今夜もシャロンは少女の部屋の前に立ち、「アッシュ、私だよ」と呼びかける。だが、返事が返ってこない。


 ドッターン!!


 突如、扉越しに激しい物音が響いてきた。人が倒れた音……にしても、羽のように軽い少女が立てたものとは思えない。居ても立っても居られず、部屋の扉を勢いよく開く。


 ベッドのすぐ真下というか、床に、男が一人、倒れている。

 ベッドの上では少女が青ざめた顔で、全身をガクガクと震わせている。

 よく見ると、少女の寝間着は乱れ、胸元がはだけていた。

 少女の身に何が起きたのか。

 一瞬にして想像がついてしまったシャロンは、これまで感じたことのない、烈火の如く燃え盛る激情のまま、床に倒れ込んでいる男に猛然と駆け寄った。


「貴様!!このに何をした!!!!」


 胸ぐらを掴み、殴りかかる寸前、男が白目を剥いたまま、全身をピクピクと痙攣させているのに気付いた。意識は辛うじて残っているようだが、声帯も麻痺しているのか、喋ることさえままならない。その異常な様子が、シャロンに冷静さを取り戻させた。


(そうだ……、こいつよりもアッシュの方を……!)


 雑に男を床に放りだし、まだ震えが収まらない少女の許へ駆け寄っていく。シャロンの顔を見るなり、少女は明らかに表情を緩めた。衣服は乱れているものの、未遂で終わっていた様子に、心の底から深く安堵する。

 しかし、少女の口元が唾液でべとべとに汚れていることに気付くと、すぐにその思いは取り消された。まだ十代前半の少女にしてみれば、唇を強引に奪われ、咥内を蹂躙されることは強姦と同義。

 煮え滾る怒りを押し殺し、シャツのポケットからハンカチを取り出して少女の口元を丁寧に拭ってやる。少女は大人しくされるがままになっていたが、やがて耐え切れなくなったのか、淡い灰色の瞳から大粒の涙をボロボロと零し始めた。

 さすがに唾液で汚れたハンカチで拭き取るにはいかない。ハンカチの代わりに、シャロンは自らの手の甲で少女の涙を拭ってやった。


「ありがとう……、ございます……」

「すまない、アッシュ。私がもう少し早くここに来ていれば、君をこんな酷い目に遭わせずに済んだのに……」


 声を震わせて謝罪するシャロンに、少女は激しく首を横に振ってみせた。

 そのいじらしさがまた、シャロンの胸を締め付ける一方、昏倒する男へ、殺意に似た憎悪を炊きつける。

 男は服装を見るに、この屋敷の使用人ではなさそうだ。

 厳重な警備を掻い潜って屋敷に入り込むのは至難の業だし、失礼な話、少女の痩せ細った、不健康極まりない姿に性欲が湧くなど、同じ男としてどうにも腑に落ちない。おまけに、強力な毒でも盛られたかのような異常反応。


「アッシュ、この男に一体何が起きたんだ??」

「……私にも、わかりません……。ただ……、私の口の中に……、舌を……」

「やっぱり答えなくていい。君にとって、口に出すのも辛い話だろうから」

「いいえ……、大丈夫、です……。……私の、口の中に、舌を、入れてきて……。そしたら、急に泡をふいて苦しみだして……」

「何だって!?」


 少女が口にした言葉の意味が全く理解できない。

 要するに、彼女の唾液が体内に入り、このような症状を引き起こした、ということなのだが――、ただの唾液に毒物のような効力を持つなんて見たことも聞いたこともない。

 もしかしたら、襲われたことで頭が混乱しているのでは……、と疑いを持ち始めた矢先、部屋の扉が静かに開いた。

 シャロンが恐る恐る振り返るとそこには、金縁眼鏡を掛けた初老の紳士――、レズモンド博士と、彼の従僕である屈強な体格の男が佇んでいたのだった。


「おや、シャロン君じゃないか」

「……は、博士……」

「この様子だと、アッシュと随分懇意にしているようだね。マーガレットが知ったら、さぞや嫉妬して、癇癪を起こすだろうに。まぁ……、この件に関しては、マーガレットには内密にしておこう。私も愛する娘が傷つく顔を見たくないのでね」

 博士の意外な言葉に、シャロンはひどく拍子抜けしたと同時に、一体何を企んでいるのかと、逆に戦々恐々とした気分に陥った。

「そうだ、ついでと言っては何だけれど、君に良いものをお見せしよう。ブルータス、あれを」


 博士に呼ばれた従僕は、手にしていた小型トランクを博士に向けて開いた。

 中には、二本の注射器と空の薬瓶、不気味な青緑色をした薬品入りの小瓶が収められていた。博士は注射器を一本手に取ると、少女の方へと向き直った。

 少女は恐怖に打ち震えながらも、ベッドの上で身動き一つ取れずにいる。怯える少女に構わず、博士は強引に腕を引っ張り、袖を捲り上げる。

 少女の腕には無数の注射痕が残されていた。


「アッシュ。『宝』を打つのは後だ。まずは血抜きをしよう」

 博士は少女の腕に注射針を突き刺し、筒を少しずつ押し引きながら血を抜いていく。血液が半透明の筒の三分の一までくると、博士は針を引き抜いた。

 博士は注射器を手にしたまま、トランクの中から空の薬瓶を空いている手で取り出し、血液を移し替える。

「さてと……」

 血液入りの薬瓶を手に、博士はまだ倒れている男の傍まで近づくと、彼の口の中へ少女の血液を流し込んだ。

 博士の一連の行動を終始気味悪げながらも、黙って見守っていた(それより他に成す術がなかっただけだが)シャロンは、次の瞬間、俄かに信じがたい光景を目にすることとなった。


 白目を剥いていたはずの男の瞳がカッと見開く。倒れたままでその身を激しく上下に跳ねさせる。まるで、地上に打ち上げられた魚みたいに。

 しばらくその動きを繰り返した後、男の動きがガクッと止まる。口の端からツーっとだらしなく涎を垂れ流し、ぴくりとも動かなくなってしまった。


「シャロン君、あの者の脈を測ってきてごらん」

 博士の言葉に従い、シャロンは男の手首を手に取り、首にも指先を押し当てる。顔を見れば、瞳孔が開ききっている。

「……すでに、彼はこと切れています……」

「ふむ、やはり予想通りだ」


 全く驚きもせず、むしろ事実確認が取れた、というような博士の口ぶりに、「……博士、アッシュの身に何が起きているのですか?!」と、問い詰める。


「シャロン君、落ち着きなさい」

「これが落ち着いていられますか?!」

「落ち着け、と言っているんだ。次の実験を見れば答えはおのずと分かる」


 博士は血抜きに使った注射器を床に投げ捨て、もう一本の注射器に青緑色の薬品を筒の中へ流し込む。


「ブルータス、アッシュを押さえていろ」

 博士の言葉に従い、従僕は少女の身体に馬乗りになってベッドに押さえつける。

「博士!おやめください!!アッシュは貴方の実の娘でしょう?!」

「この娘を産んだせいで妻は死んだのだ。私から妻を奪ったその罪滅ぼしとして、私の『宝』達の実験体となってもらっている」

「……宝とは??」

「私が趣味で集めている毒薬だよ。致死に至らない程度に、こうしてアッシュに毒を注入しては反応を試している」

「何てことを……!」

「そうそう、最近判明したことだが、幼い頃から様々な毒を与えられてきたからか、アッシュは毒への耐性が非常に強い」


 シャロンの非難に一切耳を貸さないどころか、レズモンド博士は何処か楽しそうに語り続ける。


「それだけじゃない。アッシュの唾液には軽度の毒性、血液には強力な毒性反応が示されるようになったのだよ。だから、適当な浮浪者に金を握らせて屋敷に引き入れ、アッシュを襲わせた。唾液、もしくは血液を体内に取り込んだ時の反応を確認したかったからね。そしたら、思った以上に良い結果が得られたよ」

「……良い結果??」

「アッシュの血液はごく少量でも、充分殺傷能力を持つということだ。あの僅かな量ならば体内にすぐ吸収されてしまうから、証拠も残らない。彼女はまさに生ける毒物となったのだ」

 一通り語り終えたレズモンド博士はアッシュに向き直る。

「さぁ、実験を始めようか」

「博士、やめてください!!」


 シャロンは注射器を持つ博士の腕を掴み、必死で少女への毒物注入を阻止しようとした。しかし、反対側の肘で鳩尾を力一杯り突かれ、よろめいた弾みで床に尻餅をついてしまう。その隙に、博士は素早く少女の腕に注射針を挿し、毒物を注入し始めた。

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